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20250711
ヤンキーとぼく ~人格形成ニ難アリ~ - 薄塩指数
過去のいじめを許せるか?というネットの討論番組があり、様々な意見が交わされていた。もし自分の考えを述べるなら、どれだけ謝罪されたとしてもその傷は消えることなく、一生許すことなどできないという立ち位置になる。
そもそも、当事者以外が評価したり、線を引いたりできる話ではないと思う。
人は心に深い傷を刻むような出来事を、ことさら鮮明に記憶する性質があるらしい。そうした記憶は「フラッシュバルブ記憶」と呼ばれ、時間が経って表面上は風化したように見えても、心の奥底で形を変えながらずっと残り続ける。
〜人格形成ニ難アリ〜
このサブタイトルが示す通り、過去の痛ましい経験がどのように人格を形作り、そして蝕んでいったのか。その原因や過程が、どこまでも具体的に、そして救いようのないほどネガティブに歌われている。
本当はもう思い出したくもないのに。
二度と会うはずもない相手から、何事もなかったように同窓会の通知が届く。この曲の本当の始まりはここからだ。
無関係のはずの相手の名前ひとつで、傷口が再び開く。殺したいほど憎んだヤンキーの君への、僕の呪詛にも似た叫びが、この曲を生んだ。
ある意味で、僕の行動は今も君に支配されている。無関心でいたいのに、それが許されない。最も遠くにおきたい相手に、依存しなければならない。「人格形成」という言葉にはそんな苦しみが込められていて、おそらく一生、この呪縛に囚われ続けなければならないという残酷さが、ひしひしと伝わってくる。
唯一救いがあるとするならば、こんなにもむき出しの本音がボカロ曲として形になったことで、たくさんの人に届き、共感と勇気を生んだことだろうか。
ここまでこの曲が抱える主題について触れてきたが、少し距離を置いて、その意義を考えてみたい。
たとえば、青春時代の苦悩や葛藤をバンドサウンドで爆発させるような曲は、これまで数多く生まれてきた。うまく消化しきれなかった鬱屈やもやもやをエネルギー源に変えた表現が、同じ痛みを抱えた人々の共感を呼ぶ。青春パンクなどは、その典型例と言えるだろう。
同じ感覚を共有できる仲間を引き連れ、声を張り上げることができた感情は、ある意味で「強者の手段」だったのかもしれない。
けれど、誰一人として通じ合えなかった屈折した思いは、血の通わないロボットに代弁させる技術を得た。
かつては不可能だった表現が、いまはこうして形を持つ。そのこと自体が、この曲の大きな意味を示しているように思う。
そしてそれは、奇しくもこの曲でいうところのヤンキー側の多くがHIP HOPという手段を通じて、自分を語るようになったことにも通じるものがある。
そんな意味でも、この曲はボカロという文化の中で、ひとつの象徴的な例と呼んでも差し支えないのではないだろうか。
そして最後にひとつ言えることは、たとえ後になって謝罪されようとも、その加害の記憶で相手の人生を一生支配し続ける力を持ってしまう。そのことを、どうか軽く考てはいけない。









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