8月15日。63年目の終戦記念日。6日から滞在していた広島市をようやく離れることに決め、午前中は平和記念公園で過ごしました。
取り巻く人がいつもより多いことを気にも留めず
原爆ドームは今日も建っている。
不謹慎かもしれないが、それにしても美しいかたちだ…。
朝でも昼でも夜でも、そして360度どこから見てもほれぼれするほど美しいので、
時々立ち止まりながらぐるぐると回るのが僕の日課になってしまった。
また不謹慎かもしれないが、「棚田」の美しさに通じるものがある気がする。
どちらも、美しいものを創ろうとして出来た造形ではない、という共通点を考えてみたけど、さぁどうでしょう。
ところで、原爆ドームは最初から原爆ドームだったわけでは勿論ない。
1915年竣工の広島県物産陳列館(のち産業奨励館と改名)。
地上三階地下一階の、この豪華な建築物が、
廃墟となってこのような形で永久に保存されることになるとは、
設計したチェコ人ヤン・レツルも予想だにしなかったろう。
ここでは物産展や品評会のようなものが常に開かれていて、
カール・ユーハイムによって、バームクーヘンが日本で最初に売られた場所でもあるらしい。
きっと広島一のおしゃれスポットだったのだろう。
その後、催しの幅を広げ、戦争直前は美術展が盛んに開かれていたそうだ。
1945年の8月6日、しかし広島は壊滅した。
産業奨励館から東に200Mの島病院(再建されて今もある!)の上空で原爆が炸裂し、
館内の従業員らは全員即死だったと推定される。
推定、というのは、
川向かいの、今は平和記念公園になっているエリアは中島町という繁華街だったのだが、町そのものが無くなり、地下室にいた1人を除き全員死亡、
さらに少し離れた本川国民学校でも児童教職員全員死亡、というから、
何人いたかも全く分からないが産業奨励館の人も当然即死だったろう。ということだ。
かくしておしゃれスポットは、
何も知らずあっという間に死んだ人の魂の眠る、廃墟となった。
保存か取り壊しか。
広島市は取り壊し派で、市民の意見も分かれた。
そんな中で、1960年、ひとりの女子高生が原爆が原因とみられる白血病で死んだ。
日記にあった言葉が原爆ドームの運命を決めた。
「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐ろしい原爆の惨禍を、後世に訴えかけてくれるだろう」
原爆ドームは今日も
無残な姿で、風雨にさらされ、人目にさらされ、フラッシュを浴びつづけ、
歴史の証人として、健気に建ち尽くしている。
死者は、我々生者のようにものを考えることも話すこともできない。
あの一発で、極限にむごく死んだ人々の、
怒りや恨みや悲しみや、その他全ての気持ちを、
原爆ドームは託され、そして静かに吠えているのだ。
オレノ声ガ
聞コエルカ
アイツトアイツトアイツトアイツトアイツトアイツノ声ガ
聞コエルカ