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PROOF OF ASSHOLES

2009/02/18 [01:13]

「ありがとーうぃ!!!」


青空の下、一面のさとうきび畑を抜けた先の喜屋武岬に、
感慨無量で、もはや意味不明な気持ちのラストスパートで息を切らして僕がたどり着くと、
「来た!」「来た!」「来た!」「来た!」
4つの小声とともに4つの黒い影が慌ただしく動き、
ゴールテープが引かれました。
イナヴァ、キャプテン、マスター、レフティの4人でした。


このフィニッシュラインを作る為だけに大阪から一泊二日でやってきたこの会社員たちを、
僕は本当にアホだと思います。
自転車で日本を縦断するのと同程度にアホだと思います。


マスターが付けてくれた、この旅の素晴らしい題名
「PROOF OF ASSHOLES」、
=「愚か者の証明」
しかし最後の最後で、
バカ集団のバカ集団たる所以を証明したのは、
僕ではなく、愛するバカ集団の仲間たちでした。
ああ、僕はその事実に、泣きます。


思えば、何もかも人に支えられての旅でした。
重いペダルを軽くするのが人ならば、
孤独に渇いた心に水を与えるのも人でした。
支援してくれた仲間と家族と、
道中に出会った全ての人と、
これを見ている全ての人に、
死ぬほど感謝しています。
いっしょくたにして実に申し訳ないですが(笑)、


皆さん、本当にありがとうございました!!!



僕は自転車日本縦断を達成しました。
主要なデータを報告してブログを終えます。


日数…566日
2007年7月1日〜2009年1月17日


通過した都道府県…45


パンクした回数…約30回


職務質問を受けた回数…0回!


入ったコンビニの数…1000軒以上


訪れた陸繋島…約20箇所


訪れた棚田百選選出の棚田…約20箇所


総走行距離…18,104KM



……さあ、


どこまでいくのか。


comment (16)


15番目の月

2009/02/14 [23:36]

大学時代、ある時期からほとんど授業に出なくなった僕は、内心の有り余るエネルギーを全てヨットに傾けた。


丸3年取り組んできた競技。そして「引退」前の最後の大会が3月の中頃にある。
三回生から四回生に上がる時期だから、就職活動も始まっている。
僕には就職活動など無かったからいいが、仲間は大変だったはずだ。
日に日に説明会だか面接だかの予定が増えていくのに、週5や週6で練習が組まれ、
凍てつく寒さの2月の琵琶湖で、体を濡らして繰り返す苦行のような練習。
陸に揚がれば、部室で、暗くなるまで、いや暗くなっても、ミーティングが延々つづく。
僕は、就職活動組の倍は頑張ってクラブに貢献せねば、などと思って張り切っていた。
3月の大会そのものも良い思い出として残っているが、
僕には、仲間と駆け抜けたこの2月の日々の高揚感が絶対に忘れられない。


「祭りのあとの静けさが好き」と誰かが言っていた。
しかし繊細さに欠ける僕は、間違いなく、祭りの直前の昂ぶりこそが好きだ。
未知の領域へ、階段を一段一段駆け上がっていくような、
燃えるような思いのなかに生を実感する。
例えばオリンピックに出る人を僕が心から羨ましいと思うのは、
大会期間中に浴びるスポットライトではなく、結果としてのメダルとかでもなく、
何年も前からその試合に照準を合わせて、競技に没頭してきたはずの、彼らの日々にある。
選びに選ばれた者しか加われない祭りの、直前を駆ける高揚感…。
どれだけの興奮に支配されながら毎日をデザインするのだろう…。


ひどい口下手で無口な為にクールなどと言われることがあり、
自分でもそうなのだと愚かにも長く勘違いしていた僕だったが、
ヨットを通して、自分の中のこんな性質に気付いた。
クールなんてとんでもない、熱くなりたい性分なのだった。


あの2月、京都市内と琵琶湖を往復する毎日の車の中で、いつも「松任谷由実トリビュートアルバム」を聴いていた。
気分が高揚しているときほど音楽は身にしみるもので、
名曲ぞろいの素晴らしいアルバムに思えた。
鬼束ちひろが歌う「守ってあげたい」
原田知世の「CHINESE SOUP」
クレイジーケンバンドの「COBALT HOUR」
椎名林檎の「翳りゆく部屋」

そしてとりわけ僕の心に迫ったのは、
スピッツの「14番目の月」だ。


♪あなたの気持ちが読みきれないもどかしさ
 だから ときめくの
 愛の告白をしたら最後 そのとたん
 終わりが 見える
 Ah その先は言わないで
 つぎの夜から 欠ける満月より
 14番目の月が いちばん好き
 14番目の月が いちばん好き


この恋愛観が共感を呼ぶかは別として、「14番目の月」の比喩が見事としかいいようがない。
そして、アルバムが一周してこの曲のイントロが流れる度に、
これが、この毎日が、オレにとって14番目の月だ、と意識して、青臭くもめらめらと心を燃やすのだ。


一緒にアルバムを聞いていた者も含めて、仲間がみんな就職や進学をし、
新しい目標に向かって旅立っていくなか、
僕は、「燃え尽き症候群」ではないが、結果的に、
目標の無い生活に何年も身を置くことになった。
とにかく死なずにいればいつか何とかなる、ただそう信じるだけの暗闇の日々だった。


自分なりの「深夜特急」を描いてみようか。
そう思い始めたのは、いつごろだったろうか、もはや定かでないが、
ある意味必然的だったのかもしれない。
高校生の頃はじめて読んで抱いた「オレもいつかは」の気持ちを、ちょっと本気で掘り起こしてみようと思った。
日本でいい。その代わり自転車で。
そのアイデアが浮かんだ辺りで、気持ちは固まって、準備は加速していったのだった。



米軍嘉手納基地も程近い、沖縄県うるま市は具志川野外レクリエーションセンター。
喜屋武岬まで70キロ弱の距離にある、ここが、最後のキャンプ場所になった。
最後の夕食は、「豚と牡蠣とほうれん草の味噌キムチ鍋」。
隠岐で知り、長崎で買い足したあご(トビウオ)で出汁を取り、甘めの白味噌にキムチの切れ味を足して、
食材も奮発して丁寧に料理した鍋は、最高に美味しかった。
明日着る服も決め、今日できる全部の作業を終えて寝袋に入ったものの、
まだ時間が早いからか、明日のゴールに前夜から緊張しているのか、
意識は冴えるばかりなので、テントを出て散歩することにした。


いま、僕が見上げる空に、月はある。
今夜は満月、既に15番目の月が、
太陽のように僕のテントや自転車を照らして、
何をするのにも、どこに向かうにしろ、もうライトも要らないくらいである。



パンク修理もこれで最後だ

2009/02/10 [02:24]

いよいよだ、沖縄県。


奇しくも2度目の乗船となったフェリー「なみのうえ」が、
緑豊かな瀬底島をぐるりと回って、沖縄本島北部の本部港に入港しました。
その日ははもう夜だったので、港近くのバス停で浅く眠って夜明けを待ち、
まずは最北端の辺戸岬へ向かって走ります。


高い空、青くて白い海の色。亜熱帯らしい樹木草花の様態。石の家に石の瓦。
そして色んなシーサーが、家々の門扉の上で、ある者は勇ましく、ある者は可愛らしく、構えています。
僕に沖縄に来た確かな実感をもたらしたのは、そんなシーサーたちでした。


北へ行けば行くほど集落は小さくなっていき、人影も減っていきます。
最北端の辺戸岬だけはそれでも割と賑わっていましたが、
駐車場の車は、見たところ全て、レンタカーの「わ」ナンバーでした。
よく晴れて、気分も爽快、遠くに、鹿児島県の南端の与論島もばっちり見えました。
そういえば、西村京太郎のミステリーで、沖縄の手漕ぎの小舟「サバニ」に乗ってここから与論島に逃亡した殺人犯がいたなあ。
彼は今どうしてるだろうか。。。


特別天然記念物ヤンバルクイナを右に左に捜しながら、
その後はヤンバル(本島北部山林地帯)を走ります。
何しろ栗原のホームランボールも掴んでしまった、これはミラクルジャーニーですから、
本気で、ヤンバルクイナの赤色が目に飛び込む瞬間を心待ちにしました。
でも欲を出すと駄目なのですね。
ヤンバルクイナの絵が載った、野生動物飛び出し注意の標識がさんざんあるので、
否応なしに期待だけは高まっていきますが、ついに現れませんでした。
しかし代わりに、早くも開花した桜を見つけたので、(写真)
仕方ない、これでよしとしよう。



潮風を吸い、波音を聴きながら気分よく高速走行していた夕刻、
大宜味村の小集落で、
日が暮れるまでに名護に着きたかったのに、
折悪しく後輪がパンクしました。


毎回、パンクした瞬間は、アンラッキーに舌打ちしますが、
しかし僕はパンク修理の作業そのものは、いつの間にか嫌いではなくなっていました。
辺りを見回して、一番よさげな場所に自転車を倒し、
座り込んで、必要なものを全部広げて、その場で直します。


何でもない道で地べたに座り込むと、視線が犬の目の高さになって、
快いような、冴えたような、変な気持ちにだんだんなっていきます。
ふと、なぜオレはこんな見知らぬところで座っているのだ?と、
状況が面白おかしく思えてもきます。
すると今まで囚われていたものから解放されるような、
その日の目的地などもうどうでもいい、
名護に着かなくても、そこのバス停でもどこででもオレは寝れる、
行かなければならない場所など無いではないか、
という気になる。
「自由」の最も甘い部分、
最も人をワクワクとさせる部分の、肌ざわりが、
そんな時しかと掴めるのです。


自由と戯れ、自由とたたかう旅になる、と出発のときに言いました。
「この旅じたいが、長い長いパンク修理だったのではあるまいか…」
こんな言葉が頭に浮かび、
僕は、もうすんなりとこの旅を終わらせることが出来るということを、確信しました。


刻々と辺りが暗くなっていくなか、
降りだした弱い雨に打たれながら作業する僕の姿がよっぽど悲壮だったのか、
それとも沖縄の人がとくに優しいのか、
「パンクしたのか、大丈夫か?」
「大変ねえ。幾つ?」
「(車の)ライトで照らしててやろうか」
などと何人もの地元の方々が声をかけてくれました。
いい旅でした!皆さんのおかげです!
返答にならぬ返答を胸のなかで響かせて、僕は苦笑しました。



大島紬の奇跡

2009/02/06 [23:59]

大島紬(おおしまつむぎ)は奄美大島の伝統工芸品です。


こちらに来るまで、まったくその存在も知りませんでしたが、
島を旅しながら、目で見て耳で聞いて、この絹織物が次第に気になっていきました。
なので、いよいよ沖縄行きのフェリーに乗り込むため中心市街地の名瀬に帰ってきて、
僕は奄美の最終日を、大島紬を扱うお店巡りをして過ごすことにしました。


大島紬は、江戸時代初期から織られ、高い技術とその美しさから、和服の素材として最高の地位を誇ってきたといいます。
原料は絹100%、染料には島に自生する草木と泥(!)を使い、
気の遠くなる何百の工程を経て、機械では出すことができない独特の風合いを持つ絹織物を、
島の職人さんがすべて手作業で作っています。
(写真は反物の切れ端を用いて作った眼鏡ケース。細かい図柄に、渋い色味がいいです。)


深い色調は、西洋の鮮やかなドレスとは対極にあるかのよう。
このじんわりと深くしみ渡るような色や質感…艶やかです。
見れば見るほど、日本の女は美しい。
高くて到底手が出せない大島紬の着物を見て回りながら、
僕はそれを作り、それを着てきた
奄美の、日本の、美しい女性たちを脳裏に描いて、
感心しながら、追い掛けました。



ホノホシの旋律

2009/02/05 [23:56]

ほとんど集落もまばらな奄美大島の南東端に位置する、ある浦に「ホノホシ海岸」はありました。


名前の奇妙さもさることながら、
砂浜っぽい雰囲気なのに一面に敷き詰められたのが砂でなく、丸い石の数々で、面白いです。(写真)
それは河原の石のよう。でも目の前に広がるのは紛れもなく海なのです。


ざっぱーーーーーっ
シャー…(カラカラカラ…)


波が寄せるときの音は普通の砂浜と同じですが、
返すほうの波は、水の音に加えて、無数の石を巻き込むので、石同士が触れ合って何とも心地よい音を立てます。
生まれてはじめて聞くこの音楽が猛烈に気に入って、
一晩中これを聞いていたくなり、まだ少し日は高かったものの、ここを本日の宿に決めました。


「こんないいとこは日本中さがしてもなかなか無いよ」
そう言って地元のおじさんが胸を張るので、
砂浜キャンプは特に大得意としながら北海道から一年半旅してきたことは何となく伏せつつ、
僕もここを絶賛して、おじさんと仲良く話しました。


食事やテントの設営、荷物の整理云々のルーティンワークをさっさと済まして、
暗くなるのと同時くらいには横になりました。
そしてホノホシの旋律に身を浸し、
たまに外に出ては満月に近い月を仰いで、
これが美しい夜でなくて何であろう!
これが旅の妙味でなくて何であろう!
と、満ち足りた思いを味わいました。


目をつむると音楽はうごきだす。
今こそ言い切ろう、
すべて音楽の原点は、寄せては返す波音にある。



加計呂麻島

2009/02/04 [23:49]

奄美大島南部の中心地、瀬戸内町古仁屋(こにや)にやってきました。


古仁屋図書館に、真っ先に向かいます。
というのは、佐賀県の伊万里でお世話になった、日本画家の小林さんの寄贈した絵画がここに飾られていると聞いていたからです。


97年にフランスの美術展で賞をとったという「晩秋洸」。
稲刈り後の田んぼにたたずむ白サギの絵は、
気品ある美しい絵で、絵画を解さないはずの僕も、見ていて心安らぎました。
何故ここに寄贈されているかというと、
奄美大島瀬戸内町は小林さんの奥さんの出身地だからです。
というわけで、絵を見た後は、
大島海峡を挟んですぐ対岸に浮かぶ加計呂麻島に渡り、
連絡していた、奥さんの甥ごさんの経営する民宿「来々夏(ココナッツ)ハウス」に向かいました。


川のように透明な水の大島海峡を、フェリー「かけろま」は、20分で結びます。
加計呂麻島、生間港に着き、民宿のある渡連(どれん)の集落に向かう道すがら、
チワワを連れた女性を追い抜く形になり、
目が合ったので挨拶をしました。
「こんにちはー」
「あ、こんにちは!」
こちらは何しろ自転車なので、あっという間に抜いて去っていこうとすると、女性が、


「もうすぐですよー。」


「……!?」
つまり女性は来々夏ハウスの女将さんで、
僕のいでたちから、僕が今日の来客であることを瞬時に気付いてくれたのでした。


玄関の満開のブーゲンビリアに迎えられて到着した来々夏ハウスは、
目の前の渡連ビーチまで何と徒歩5秒!
暖かい奄美とはいえ、さすがにまだ泳ぐことはできませんでしたが、
澄んだ海が見渡せる広々した部屋に泊めて頂き、
ここで釣れた魚料理の食事(地魚の刺身、アジのまるごとの唐揚げ、伊勢エビの味噌汁…)もおいしくて、
笑いが止まりませんでした。
そしてとうとう宿泊代は受け取って頂けませんでした。
恐縮恐縮、感謝感謝です。


「いつか、また来ます!今度は夏に」
まるで社交辞令かのような120%本気の台詞が、
翌朝の出発時に口をついて出ました。
生間港に戻る帰り道、日は射しているのに雨が降りだし、
程なくして海峡を渡す半円の虹が現れ、
足を止めて僕はそれに見入りました。


comment (1)


Route 58 道に魂は宿る

2009/02/02 [23:58]

R58。 満を持して登場する、この旅のラストを彩る主要国道です。 鹿児島市の中心部をわずかに0・7キロ走っていきなり海を渡り、 種子島を縦断し、海を渡り、 奄美大島を縦断し、海を渡り、 沖縄本島を縦断して那覇市に至る、 海上部分を含めた場合の最長の国道です。 このように、海上部分を含む国道というのは、日本各地に28本もあって、 旅に出て初めて知りましたが、 実はそう珍しくはないんです。 しかしここまで陸上部分より長い海上部分を持つ国道というのは、さすがにR58だけでしょう。


ちなみに「国道」のイメージに合わない国道は他にも沢山あります。
青森にあるR339は山中に階段部分があるし、(唯一の「階段国道」として観光名所化している)
険しい峠に、歩いてしか通れない部分を含む「登山国道」は、もっとざらにあります。
国道だからといって安心して走っていると、
車が離合できないような狭い険しい道になっていき、
これが国道か!と笑えてくることが、僕にもちょくちょくありました。


ところで、国道は1号から始まって、何号まであるかご存知ですか?


300?400?


答えは507。
案外多いですよね、しかし欠番があります。
59から100は存在しません。
戦後、国道をいちから制定しなおすに当たって、
基本的に県庁所在地同士を結ぶ、主要な国道を「一級国道」として一桁と二桁を付し、
それ以外には「二級国道」として三桁の数字を101から付けていった結果、
主要な国道は57でストップし、58から100の欠番が生じたわけです。
(ただしその後の法改正で現在は一級二級の区別は無い)


そして1972年、戦後27年間アメリカ領だった沖縄の返還で、
欠番だった58が出現しました。
占領下の沖縄の大動脈だった「ハイウェイNo.1」を、


県内だけを走る「三桁国道」でなく、
本土から繋がった「二桁国道」にしたい。


占領を味わった沖縄の人々のこの気持ちが、
地図で見ると若干無理矢理な感じも否めない、この最長の国道を生んだというわけです。


道は人の思いを受けとめます。
毎日走る国道。あの頃、毎日走った国道。
あなたがこよなく愛する国道は、何号ですか?


僕が今回の旅で最後に世話になるこの国道には、
上の経緯から、特に思いが強く籠もっていると勝手に思っています。
それは旅人のかりそめの感傷かもしれません、
しかし一方通行の愛も僕に限っては許されるはず、
だって鹿児島どころか、北海道から道を繋いできたんだから!



雨やどり

2009/01/30 [23:07]

スコールのような突然の雨に遭い、道沿いに見つけた物産店の軒先のテントに慌てて駆け込むと、奄美美人のお姉さんが「いらっしゃいませ(^O^)」とお店から明るい笑顔で出てきました。


(完全にものを買うつもりが無い客なのだが…)
と曖昧に笑う僕でしたが、次にお姉さんが発した言葉が、
「ぜんざい食べていきませんか?」
だったのには驚きました。


旅の話を聞いてもらいながら、
その日の朝、その物産店であった集会でふるまわれた、その残りだというぜんざいを、有難く頂きます。
茶請けのパパイヤの浅漬けがまた美味しい。
天気の悪い平日の昼間に、一人で店番していて要するにお姉さんは暇だったのだと思いますが、
田舎ならではとも言える、
こうして自然に発揮されるもてなしの心、本当に素敵です。
雨はすぐ止みましたが、道路が多少乾くまで、などと言って、しばらく休ませてもらいました。
お姉さん、ごちそうさまでした、ありがとうございました!


住用町では日本最大級のマングローブ林を一望して(写真)
心も軽く、ある坂道を登り切ると、
「へんなの〓!」
と後ろで幼い声がしました。
振り返るとキックボードに乗った5歳くらいの少年がこちらを見つめていたので、
「写真撮ってあげるからこっちおいで」と呼んでみれば、
地面をキックしてボードに乗ってシャーと追い付いてくる少年。
素直でいいなあ。。。


小さな友達と少し遊んで、
名刺しかあげるものがなかったのでそれをあげてから別れ、
また心を軽くして走ります。


相変わらず雨は降ったり止んだりを繰り返しており、頻繁に雨宿りをするので、距離がなかなか稼げません。
(彼に次に会えるのはいつだろうか…)
旅が終わろうとしている悲しさからか、
こうやってすぐさま襲ってくる感傷を、
まだ早いぞ、と、打ち消そうと努めていると、
…ん?また後ろで声がしました。


走る車の助手席からかわいい頭を出した少年の笑顔がそこにはあり、
袋いっぱいのたんかん(奄美のみかん)の贈り物を手渡してくれました。
「おとうさんのめいしもなかにはいってるから!またきてね、ぜったいだよ!」



景色に殴られる

2009/01/29 [13:38]

この見事な光芒!神さまがなかなか降りてこないのがむしろ不思議だ。。。


大島最北端の笠利崎手前の「用海岸」で砂浜キャンプをした翌朝、
沖に見える美しい隆起サンゴ礁の島、喜界島の島影のとなりに、
写真のとおり、わずかな雲間から海に落ちる光芒がありました。
前日から曇りが続き、ときに雨もぱらつく悪天候に半ばうんざりしていたのに、
これひとつでお釣りがたんまり、来ました。


目に飛び込んだ光景に息を呑むとき。
いい景色があると知っていてそれを見に行く場合とはまた違う、感動があります。
北海道の多和平で見た星空の衝撃…。
隠岐で見た、夜光虫の散らばる、その星空のごとく輝く浜辺…。
瞼の裏に焼き付いています。


  椰子の実の無名の旅に日は注ぐ気まぐれこそが愛しかろうと



奄美へ

2009/01/26 [23:45]

奄美大島、名瀬港に到着してタラップを降りると、一日のうち最も気温が下がる夜明け間際だというのに、あまりの暖かさに笑いました。


寒さとの格闘ともこれで決着か。
と思うとちょっと寂しい気もしましたが、死なずに済んだ安心がやっぱりそれより大きいです。。。


とりあえずは奄美大島最北端の笠利崎を目指して走ります。
名瀬は奄美一の大都会なわけですが、スーパーが2つコンビニが1つ、ファミレスが1つ、映画館が1つ、の落ち着いた街です。
港に沿った位置にある小さな運動公園の中を何となく走っていると、
前方から、かなり本格的なランニングウェアを来た女性がジョギングで近づいてきました。
フォームもいかにも綺麗だし、奄美のランナーはカッコいいなあ。と思ってすれ違いざまにふっと顔をみると、


野口みずきさんでした!


「体調はいかがですか!」と訊ねることも出来ずに、あっという間に離れていってしまいましたが、
(走っているとき話し掛けられても困るでしょうが)
元気に走る野口さんに会えてラッキーでした。


街の人に聞くと、奄美はマラソンや駅伝に力を入れていて、よく合宿なんかがあるんだそうです。
冬でも暖かいし空気もきれいで、山あり海岸ありで道は変化に富み、そして車が少ない。
言われてみれば、ロードのトレーニングにはぴったりの場所ですね。
写真は、「すれ違うふたり」ということで。


comment (3)


富岡家の人々

2009/01/24 [22:19]

夕刻、暮れなずむ桜島に別れの汽笛を告げて、フェリー「なみのうえ」は奄美へ向けて九州島を後にしました。


鹿児島新港を出て1時間、ざわついた船内の空気も落ち着いてきた頃、
携帯電話が鳴りました。
阿蘇くじゅう高原ユースで知り合った富岡夫妻のお母さんでした。
そろそろフェリーで沖縄向かってるぐらいかなあ。と思って何となく電話してみた。ということで、
まさにその通り!と手を打ち(このブログのことは言ってなかった)、
後々まで気に掛けてもらってることに感謝しました。


阿蘇で、次熊本県に入るとき、良かったらうちに寄っていきなさい。と言ってもらっていたので、
実は、合志市の富岡夫妻宅に12月21日に赴いていました。
(そこで当初連絡が付かなかったカクジから電話があり、2日かけて佐世保にとんぼ返りしたわけですが、そんなルートの錯綜は別にいいとして)
そんなこんなで少しタイミングが合わず、
ブログには合志訪問のことは書かずに進んできて、
それが九州の心残りではありました。
するとフェリーに乗り込んだところでこの電話。
タイミングを得させてもらいました…!


12月21日は朝から土砂降りの雨でした。
22日は先方の都合が悪いらしいので、今日行かねばならない。雨中の走行です。
防府のオマール家を訪ねたときもこんなだったなあ、と思い返したりしながら、
土砂降りゆえ、濡れるのはもう完全に諦めて、走りました。
阿蘇で、家の位置と行き方を詳しく聞いていて良かった。
地図も携帯電話も容易に出せないし、道を聞く通行人もいない。
若干迷いながらも、記憶を頼りに目印を一個ずつ通過して、
「5軒ならんだうちの真ん中の家」にたどり着くと、
寒い中、お父さんが玄関先に出て待っているではないか!
「そろそろかな思てね、しかしあの説明でよう来れたっちゃんねー」


オアシスに到着した砂漠の隊商の気分で、
沸かしてくれていた五右衛門風呂で体を暖めます。
薪です。気持ちよくて面白くて、危うく僕も釜茹でになるところでした。


富岡夫妻は、後で見に行きましたが、畑で色んな野菜を作っています。
スーパーに行っても、野菜コーナーにはまず行きません。
自分のところで採れる野菜と近所のところで採れる野菜で、全部まかなえるそう。
食卓に並んだ料理の中心は自分ちの野菜です。
例えば味噌汁は、大根、人参、里芋、葱…、味噌も原料の大豆からして自家製でで、水も井戸水なので、おおパーフェクト。
合志の土の味がする素朴な味噌汁が、しみじみ美味しかったです。


夜は、近くに住む娘さん夫婦もやってきて、
4年生を筆頭に3人のお孫さんと1匹の犬が暴れ回る「体育館」と化した富岡家。
爺さんと婆さんと父ちゃんと母ちゃんと、孫、孫、孫、犬。
客人は、
大人と酒を飲もうとすると子供が放っといてくれないし、
子供と遊んでいると大人が呼んでくれるし、
犬にも犬好きが伝わって大いに甘えてくるし、
客人の幸せというものを思い切り感じていました。


僕をうちに招き、よくしてくれるのには理由がありました。
お母さんは、若い頃、僕のように各地を旅して回っていたことがあるそうです。
そのとき世話になった人に、


「もう私は恩返しできないから、「次の人」に、ね」


こういう発想がふつうに出て、そしてその通りに行動できるお母さんを僕は尊敬します。



夜遅く、夫妻の旧い知り合いらしい「田中さん」からいきなりの電話がかかってきた。
用がある電話じゃなさそうだったが、
お母さんはしばらく明るく話し、もう床に就いていたお父さんを、声を上げて呼んだ。
しかし酔って寝ていたお父さんはそれに応じなかった。
翌朝、お母さんは怒っていた。
夜中に変な電話をよこした田中さんに、ではない。起きてこなかったお父さんに、である。
「あんた人ば大事にせんで何の為に生きとるとね!」
頭を掻くお父さんと目が合って、笑ってしまった。



薩摩半島一周ラリー

2009/01/23 [20:28]

鹿児島発、鹿児島行き。


最後の打ち上げ花火よろしく、
「薩摩半島一周ラリー」を華々しくやってきました。
昇る朝日を合図に鹿児島市をスタートし、
約12時間後、鹿児島市に戻ってくると、


走行172キロ!


長らくトップだった北海道の(平取〜室蘭139キロ)、
これを越えたついこの間の、(長崎・川棚〜熊本146キロ)
を大幅に記録更新しました。
写真は円錐形の美しい開聞岳。



知林ヶ島 終着駅

2009/01/22 [23:54]

落石岬、霧多布岬、エンルム岬、函館、男鹿半島、江ノ島、観音崎、潮岬、…


日本列島北から南、全国の陸繋島を回ってきました。
その最期を飾るのは知林ヶ島(ちりんがしま)であります。


南の島々へ渡るフェリーが出る鹿児島市を一旦通り過ぎ、
薩摩半島の先端、温泉で有名な指宿市に入ります。
しかし僕の目的の一番は、浜辺の砂蒸し風呂ではなく
潮が引いたときだけ砂州が道状に現れ、渡ることができるという、この浪漫あふれる無人島なのでした。


旅に出る以前からここについては知っていて、
日本縦断をもしやるなら、必ず行くことになるだろう、と
強くイメージしていた場所でした。
陸繋島を「つなぐ」旅。というサブテーマも、発想はここから生まれていたわけであります。


たどり着いた。長かった…。
快晴の冬の空は、夏空の青さとはまた違った清々しさがあります。
海も空に呼応して見事に青い。
残念ながら今の時期、知林ヶ島は、干潮時も、渡れるほどの砂州は出現しないようで、
渡ることは諦めて、こちら側の魚見岳215Mに登って、その頂から島を眺望します。
歩いて30分、うっそうとした森を抜けて、突如展けた視界に、
島は圧倒的な存在感で鎮座していました。


渡れそうでは到底ないが「道」も見えます。
両側から迫る波が、未だ浅く沈む砂州を淡く浮き上がらせて呼吸する…
「こんな美しいものは見たことがない」心境に、そう、僕もなりました。


…山頂の広場の芝生にどのくらい座っていただろうか?
青空に浮かぶ自由な凧のように風に遊ぶ、うごかない知林ヶ島。
青い鳥の終着駅には、
長い旅路の全てを肯定してくれるような、
静かな、感動を越える感動が待っていました。
そしてつくづく思います。
自然のやることは変化に富んでいて、
そして気が利いているから好きだ!



湯けむりが見えれば

2009/01/21 [08:46]

今更ながら、冬は自転車の旅に適した季節では決してありません。


一日中外にいるのは、やっぱり寒いです。
仮に暖房器具など無かったとしても「屋内」というのがそれだけでどれほど暖かいか、
身にもって感じています。
太陽が出ていればまだましですが、曇りや、突然の雨など本当に恐ろしい。
日が沈むのも、もの悲しいというより、ちょっと怖いくらいだったりします。


夜は、テントの中で寝袋を二重に、衣服も二重三重に着て、カイロを足先に放り込み、エアマットにもMAXに空気を吹き込んで、さらに防災用毛布を一枚かぶり、ミイラのようにぐるぐる巻きになって眠るのですが、
それでも寒いです。
眠りながらにして冷えで脚がつった日も幾度か。
お願いだ早く朝が来てくれ。太陽!はやく!と痛切に願う夜、いっこうに進まない時計。
夜をしのぐためのアイテムがどんどん増えて、夏場に比べて荷物も倍くらいになっていて、走りが重い。
日照時間そのものが短くて行動に制約も大きいのに、寒さとの闘いに忙殺される。
本当に、冬は自転車の旅には向かない季節です。


しかし、であります。
この真冬にまで旅を続けていて良かった。とも思うのです。
他でもない、温泉に浸かって骨の髄まで冷えきった体を温めているときに!
(ふうわあぁぁぁぁぁあああったかいーーーー!!)
今日この温泉に入った全ての人のなかで、
オレが最もこの温泉を美味しく味わっている!という強烈な自負?など感じつつ、
半身浴主体で体を芯まで温めます。


今日入ったのは、鹿児島県は薩摩川内市の、市比野温泉「下の湯」。
入浴料金はワンコイン、100円です。
アルカリ性のヌルヌル系の湯は、勿論掛け流しで新鮮。
施設は古いが湯は新しい。というわけです。
昔ながらの共同浴場に、毎日通う地元のおじさんおばさんの挨拶や世間話が明るく飛び交い、
僕は「湯は人々を明るく素直にするんだ」という結論に至りました。
温泉に関しては、この旅の過程で、おのずと「舌が肥えて」しまっている僕ですが、泉質や諸々を含めて、ここは実に良い湯でした。



鶴の平野

2009/01/19 [18:11]

鶴は旅をする。国境をまたぎ海を越え数千キロ、鹿児島県は出水平野に、今年も1万羽の鶴が越冬にきています。


中国やモンゴルやロシアで夏を過ごし、
冬になると数羽ずつ隊列を組んで順次、朝鮮半島や日本へ渡る。
旅とともにある彼らの一生、
渡り鳥の当たり前の行動様式に、
幼稚かもしれませんが、憧れを禁じえません。


鶴の越冬地は、開発が進んだなかで、いまや事実上日本にはたった一ヶ所、ここ出水平野しか残されていないそうです。
八代で教えてもらった鶴情報をたよりに、出水市に差し掛かると、
居る、居る、普通に居る!
朝の田んぼで二番穂をついばみ、たたずむ鶴たちの影、
首を伸ばした独特のスタイルで宙を舞う影、
愛らしさいっぱいです。


  渡る鳥もひと息つけや湯の街ぞ


10月、大分は別府温泉のときに作ってみた句です。
…無事に越冬地にたどり着いてよかった。せいぜい心安らかに春を待ちなさい。


ところで、別府鉄輪温泉には、各温泉施設に「投句箱」と紙とエンピツが用意されていて、
その年の最優秀作は何と石碑にして街のどこかに建ててくれる、ということで
それで作って投句してみたのです、
そうしたら「佳作」を頂きました。うれしい!
まあ最優秀賞と違って大量に選ばれていましたが。。。


さて、鶴を間近で見たくて、わざとよそ見しつつ、そろりそろりと歩いて接近していくのですが、
ある一定の距離になってくると、向こうもさり気なく歩いて離れていき、きっちり間合いを保ちます。
見てないようで見てる。
羽を休めていても決して警戒はゆるめていない、これぞ野生、ですね。


  しんがりを出迎え鶴は背を向ける



マル 拾われた犬

2009/01/18 [19:40]

熊本名物馬刺しと辛子レンコン、鍋にお寿司に美味しいお酒と、とっても豪華な食べきれないくらいの夕食を前にして、しみじみ幸せを噛みしめていました。(我ながら単純な男だ…)


八代市内のとある旧宅、ここは
いつもコメントでお馴染みイナヴァの奥様eちゃんのご実家であります。
昨冬結婚し(2008.1.記事参照)、現在大阪で暮らすイナヴァ夫妻が、
年末年始、揃って八代に帰省していたので、
お宅に招いてもらったのでした。


一年半まえ、東京でも二人に会い、
eちゃんの故郷八代にも「必ず行くよ」と言っていたこの街に、
それが街どころか本人の実家に、本人に案内してもらってやってこれるとは!
展開の読めない、楽しい旅です。


さて、皿いっぱいの馬刺しをエンドレスにつまみながら、
おとうさんが休む間もなく注いでくれるビールをごくごくと飲みます。
愛すべき酒のみの父。(良い意味で言ってます!酒好きは人好き)
一方おかあさんは山を登る人でした。
おかあさんの一等三角点のチャレンジが、愉快に安全に進捗していくことを祈ります。
お二人とも明るくてナチュラルな方だったので、居心地もよくて、
しっかり羽を伸ばし、(たっぷり腹も満たし、)
休養することができました。。。
本当にありがとうございました!


ただ一個だけ心残りが。
写真の犬「マル」ちゃんは、少年時代うちにいた犬に、見た目もキャラもそっくりで、
散歩にでも行って彼ともともだちになりたかったなあ。
なんて、ふと思いました。


阿蘇のまえにも来ていたので、実は八代じたいは、2度目の訪問でした。
1度目はほとんど通過しただけで、正直大した印象もなかったのが、
おかげさまでこれで、ずっと記憶に残る街になりました。
みなさまに助けられて、支えられて、彩っていただいて、
僕の旅が幸せに転がっていきます。


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お待たせしました!

2009/01/16 [20:49]

どうもご心配をおかけしました。生きてます。元気に旅を続けています。


2009年の幕開けと同時に、何故か幕を下ろしてしまっていた当サイトPROOF OF ASSHOLES。
コンピュータ二千年問題(Y2K!)を思い出して吹き出した向きもあったかもしれませんが、
ある技術的なトラブルが発生し、約二週間、見られない状態になっていました。
ご心配おかけして大変申し訳ありませんでした。
しかしもう大丈夫、トラブルはマスターがすべて取り除いてくれ、
僕はまた何事もなかったかのごとく、
佳境に差し掛かったこの旅のあれこれを綴って参ります。


さあ、行きますよ!沖縄・喜屋武岬へ。
読者の皆さん、はやくこのサイトに戻ってきてね!(切なる願い)
テント生活もあともう少し。
外では軍用機が爆音を轟かせています。…?


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おっぱいと切支丹

2008/12/30 [21:21]

島原半島の突端口之津からフェリーで天草へ渡る。


どこか隠岐を彷彿させるのどかな漁村・農村と青い海。本当にきれいです。


海岸を快走していると、ステキなものを発見!
太古の雲仙の噴火で飛んできたという「おっぱい岩」
干潮のときだけ触りに行けるという「おっぱい岩」
遠くからでは分からなかったものの、幸運にもちょうど干潮で、近づいてみると、細部までとっても「おっぱい岩」
ステキでした。


おっぱいに心満たされてから訪れた富岡半島は見事な陸繋島。
島、というか小高い山の上には富岡城がそびえ、
ここは、天草四郎の天草・島原一揆の際、幕府側の拠点となり一揆軍の猛攻を受けた、歴史の舞台であります。
この静かな陸繋島を見舞った江戸時代の戦闘…
やがて島原の原城で、容赦ない兵糧攻めと、最後は皆殺しで決着する宗教一揆。
戦に加わらず残った切支丹は、
いわゆる「かくれ切支丹」として、地下に潜って信仰を守り受け継いでいきました。
いま白日のもとにある「大江天主堂」の朗々とした姿!
胸に響きました。




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逃げる兎のケイデンス

2008/12/27 [22:11]

最終第6レグも終盤に差し掛かってきて、いよいよ旅は大詰めです。


最後は原点に立ち返って、がんがん走ろう!
と思い、ほとんど休まず九州を縦に横に駆け巡ってきたので
手首や膝が若干痛むときもありますが、このままたるまず走ります。


長崎県は、海岸線の総延長が4137KMあり、これは北海道に次ぐ堂々の全国第2位。
そんな長崎のリアス式海岸を、
冷たい北風に時には押され、時には逆らいながら
脱兎のごとく走り回りました。


干拓が進む諫早湾の堤防は、
全長8キロの真っすぐな道になっていて、上を走ることができます。
写真の通り、地図で見ればわずかな距離も、行ってみれば長大だ。。。
僕は諫早湾干拓に、よく知らないし賛成も反対もありませんが、
たまたま尿意をもよおしたので、自転車を停めてシャーとやりました。
何か意味を込めたオシッコじゃありませんので。
一応、農地になる側じゃなく、海側を選んでやりました。


武家屋敷の美しい城下町、島原は水の都。
オシッコの話の後に言うのもなんですが、
街中至るところにきれいな水が湧き、流れていて、心安らぐ街です。
たっぷり汲んであとで料理に使うと、いつものパスタも美味しく感じられました。


長崎の、有名な平和祈念像の前に立つと、
暑い盛りの8月を過ごした広島での日々と思惟がよみがえってきました。
天を指差した右手が原爆の脅威を、
水平に伸ばした左手が恒久平和を、
閉じた目が犠牲者の冥福を祈る気持ちを、それぞれ示しているそうです。
このブロンズの男が全身で表す主張を、真近で受けとめました。


よし、明日も気合いを入れて走ろう。今の僕にはそれ以外道はない。



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男たちの SASEBO

2008/12/26 [21:18]

米兵らしき体格のいい外人さんがハンバーガーショップで大きな口を開けています。軍港の町佐世保にやってきました。


タイミングよく、大学ヨット部の後輩カクジが航海を終えて母港へ帰還してきました。
彼は現在、海上自衛隊の最新鋭護衛艦「まきなみ」で通信士の要職にあります。
「まるよん」から「まきなみ」に乗り換えて、
刈り上げた短髪に凛々しすぎるフェイス…、オトコマエを通り越えていかつい感じになっていました。
男っぷりはマイケル富岡などとうに凌駕して、マイケル中村など足元にも及ばず、マイクベルナルドみたいでした。


彼のエスコートで米軍基地のゲートをくぐり、
停泊中の「まきなみ」に乗り込み、
自衛隊の本気の艦船を見学させてもらいました。
こんな経験はもう二度とできない!
ありがとう!カクジ!


鑑橋からミサイル台から食堂やトイレまで、
くまなく案内してくれましたが、
「ココはササっと通り過ぎてください」
「コレは写真はダメです」
と、ちょいちょい機密上危ない箇所があったりするのが、また面白い。
僕にはどう違うのか全く分からないんですがね。
「これ魚雷です、短魚雷といいます」
ここにある、いつでも発射できる状態に構えた魚雷のリアル!
呉の博物館にあった展示されている艦船とは違って、
一線で活躍中の護衛艦は、どう言っていいか分からないけど、つまりスゴかったです…!


舞鶴に始まり、呉、江田島、鹿屋と、
カクジの仕事を想起しつつ訪れましたが、この佐世保で最高の形で完結させられて満足です。
似たような仕事をしていたと思われる僕の亡くなった祖父も、
このような世界で、この射るような目をしていたのでしょうか。


あの魚雷が実際に船を沈めることがないままやがて処分されることを祈りますが、
カクジや、今日は食堂でつまみ食いをしていたカクジの同僚の男たちが、
いざというときの為に、海で陸で日夜頑張ってくれている。それを目で見て僕はひとつ安心をしました。


そういえばこの日はクリスマスイブでした。
男たちのMAKINAMIに
メリークリスマス。


comment (2)


息子がやってきた

2008/12/25 [21:53]

青い玄界灘を右手に見やりながら西に進み、佐賀県に入ります。


♪SAGAさがー
はなわが歌った通り、小さくて、有名な観光地が無い佐賀県には地味な印象があります。
しかし僕には佐賀県に行くべき場所がありました。


伊万里。
ここは僕が生まれる前に両親が数年間暮らしていた町で、兄が生まれた町であります。
「父と母の原点」だそうで、母からの指令で行くことになり、
町の写真をさんざん撮ってから、当時となりに住んでいた小林さんのお宅を訪問しました。


30年間、年賀状のやり取りだけが続いていた重成家からやってきた息子を、
小林さん夫婦は優しく迎えてくれ、
そしてありがたいことに泊めて下さいました。


ここは、伊万里の「名村造船」に勤める社員と家族が住む団地なので、
小林さんと父は元同僚であり、
奥さんと母も隣同士親しくしていたらしく、
自分が生まれる前の我が家族の昔話を、不思議な気持ちで、色々と聞かせてもらいました。
姉のひとつ年下で、当時よく一緒に遊んでいたという娘さんと(ただし本人たちは憶えていない)、5年生の孫くんも、
この珍客を面白がってくれ、
夕食はとても楽しい時間でした。


小林さんは実は日本画家としても活躍されていて、
自宅内のアトリエにて、
画業のウラ話も語ってもらい、たいへん勉強になりました。
当時の父と今の僕は同じくらいの歳で、
顔もそっくりだし、
僕が目の前に居ることは、夫婦にとって、
過去から人が来たような?
変な気がするみたいです。
30年前ここで交錯して、父の転職でその後離れてしまった小林家と重成家の古い交わりを、
何となく一生懸命あたためました。


翌日には、小林さんに造船所を案内してもらい、
遠くから眺めて終わりのはずだった名村造船所を、
真近で、詳細な解説付きで堪能させて頂きました。
そして別れ際、奥さんがすこし涙ぐんでいたのは、
僕との別れがどうこうというより、
もっと深い、何か、「過ぎた時間は戻らない」という言葉が持つ哀しみ?みたいな
が、理由だったように思えます。
想像しかできません、30年という月日の重み。



金印の島

2008/12/24 [18:39]

remember陸繋島。


途中から棚田にそのイスを奪われた感もなきにしもあらずですが、
この日本縦断旅の隠れたテーマが、
日本全国の陸繋島をみて回ろう。でした。


博多湾に浮かぶ周囲8キロの志賀島(しかのしま)は、
「海の中道」によって陸から繋がれた、美しい陸繋島であります。
市街から島を一周して帰ってくる50キロ、案外時間がかかりましたが、
個性的な、面白いところでした。


島自体はひなびた漁村の点在するのどかな場所。
しかし一方で砂州部分は、何と遊園地もあるレジャー砂州になっていました。
高層マンションもどかどか建っています。
こんなパターンは初めてですね。面白い。
博多が大都市でなければこうはならなかったはずで、
どこに在るかによって陸繋島のかたちはその都度変わってくるわけです。


写真は、金印公園のモニュメント。
志賀島の畑から出てきた、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の金印。
邪馬台国以前に博多にあった奴国の、漢への朝貢の証です。
日本史の先生が口角泡を飛ばして熱く語っていませんでした?



223ふたたび

2008/12/22 [22:13]

博多から高速バスに乗り込んだ。


といっても、もちろん自転車の旅を諦めたのではなく、
東京・品川で行われた223君の結婚式に参列するため、
自転車とすべての荷物を博多駅の駐輪場に預け、
一路、東へ向かったのでした。


マスター、raulと合流し、京都からは新幹線で、
日帰り東京弾丸ツアーであります。


223と聞いて、オヤ…と思う人がもしいれば、かなりのこのHPのマニアですね。
去年の夏、東北縦貫の2ndレグのラストに東京・立川で彼に会い、泊めてもらいました。


「俺も結婚するかも」
と言っていたその時の話が喜ばしくも現実になり、
こうして駆け付けられることが、本当に嬉しいです。
まさか未だ旅の途上だとは思っていませんでしたが。


一緒だった15歳の馬渕教室や、19歳の合格発表のことも思い出しながら、
28歳の冬の慶事を心に刻みました。
おめでとう、223。
おめでとう、375さん。
これからも4649!


comment (1)


香る棚田

2008/12/21 [22:22]

カメルーンフィーバーも懐かしい、大分県中津江村を通り、福岡県に入ります。


日本の国土のほとんどを占めるのは山林です。
造られた緑しか緑が無いような都市に暮らしていると、忘れそうになるこの事実。
山間部を走っていて、延々つづく道や雄大な景色をみていつも思うのは、
東京や大阪や或いはすべての県庁所在地クラスの都市を含めても、
ごくごくわずかな土地に、人が思い切り密集して生活してるんだなという、実感です。


都市はほんの一部、イナカが大半。
しかしイナカも一部、ほとんどは山林。
(足でそれを知った。と言ったら言い過ぎか…)

写真は、福岡県八女郡星野村にある、広内・上原地区の棚田。
「天に昇る階段」の異名を持つ見事な137段です。
付近にはそこら中にきれいな棚田があり、
星野村は茶の産地でもあるので、こうばしいお茶の香りの風が優しく流れていました。
お茶の香りを楽しもうと目をつむると、
Oh、棚田が見えない。



温泉旅行

2008/12/18 [19:26]

「ちょっとついてきぃ」たまたま親しくなったお爺さんがニヤリとしてそう言うので、流れに任せてお爺さんのカブについていくと、温泉がありました。


熊本県南小国町、「扇」という洒落た名の集落でのこと。
住人の共同管理による、銭湯よりさらに原始的?な形態の風呂は、
活火山阿蘇の近くだけあって温泉が至るところに湧いているこの辺りらしく、
当たり前に源泉かけ流しで、新鮮で気持ちのいい湯でした。
お金も払いようがないのでタダで頂きました。
扇の皆さんありがとう!


狭い小屋のなかの風呂で、こちらでは三人のお爺さんが、あちらでは二人のお婆さんが、
方言のこともあって内容が十分に追えませんが、楽しくくっちゃべってます。
半分に割った竹を立てて並べているだけの敷居を越えて、
ふいに爺さんが婆さんに意見を求めたり確認を取ったりして、スクランブルするのが、僕には妙に面白かったです。
旅をしていると、人々のこういう日常の風景が、何かあたらしく見えます。


風呂を上がると「じゃ、ばいばい」と言って、さっさと帰っていったお爺さん、いい湯でした、ありがとう。


ユースホステルで会った富岡夫妻おすすめの温泉は、
同じく南小国町の「満願寺温泉」。
自然湧出のあつい湯が、川原の湯船にそのまま貯められていて、入れます。
缶カンにお金を適当に入れて入っていると(入浴料金不明)、
隣におばさんがやってきて洗いもんを始めました。
食器洗い用湯船が隣にあるんですね。
んーーファンタスティック。。。
写真、画面下半分が湯船、となりに白く写っているのが満願寺川の流れです。


comment (2)


高千穂峡 濡れそぼつ地球の陰部

2008/12/15 [23:25]

順番が前後しましたが、熊本市から、阿蘇へ行く前に、熊本県山都町、宮崎県五ヶ瀬町、高千穂町を訪ねていました。


小学校の国語の教科書に載っていた「通潤橋」。
はるか遠い国の話だったこの橋が目の前に現れたとき、ちょっと感動しました。
橋を渡ることも、取水口を覗くこともできるんですね。
明治時代の水道橋は今も現役で農業用水を運んでいました。


県境を越え、宮崎県に入ります。
九州の、中央にして最深部とも言えるこの辺り一帯には、
「棚田百選」に選出されている棚田が日本で最も集中しているエリアなので、
百選の棚田巡りをしました。
ところが、目指す棚田に着く前にもいい感じの棚田がそこら中にあって、なかなか先を急げなくて困るくらいのパラダイスでした。


そして棚田目当てで足を伸ばしてやってきた高千穂で、
桜島に続き、また、人間の力の及ばない巨大なスケールの自然に出会い、圧倒されました。


高千穂峡です。
太古の阿蘇の火山活動で出来た、この辺りの軟らかい土地が、
五ヶ瀬川の流れによって削りに削られ、深い谷になっています。
看板に従い、この谷をつづら折りの道で、
どこまで下るのか…向かうのは地底か…という具合にひたすら下っていきます。
そしてやってきた谷底。海のような色の五ヶ瀬川がゆっくり流れていました。
写真は、有名な「真名井の滝」の箇所。
高千穂峡より上流の蘇陽峡を先に行っていたため、
水が綺麗には感じられなかったのだけが、もったいなかったですが、
自然のスケールが感じられるスゴいところでした。


地球は宮崎の山奥で深く美しく裂けていた。
濡れそぼつ地球の陰部。
手を伸ばしても届かない、
神秘の谷底。藍色の深淵。
僕らを永遠に惑わせてください。



comment (3)


よみがえる阿蘇

2008/12/14 [23:41]

大観峰から、そのまま阿蘇外輪山を越える形で北上し、「やまなみハイウェイ」を走って九重高原方向へ進む。 (荷物はモンモン氏が車で運んでくれていた)


阿蘇くじゅう高原ユースホステルは、
「親戚の家に遊びに来た感じ」の、ほのぼのした宿でした。
普段はペアレントのおばさんひとりで切り盛りし、
お客が多いときだけ、その都度、熊本市内などから助っ人を呼ぶそうで、
この日の客は僕ひとりでしたが、たまたま前日に「長崎大学ユースホステルクラブ」が大勢で来ていたらしく、
阿蘇の麓、合志市から助っ人の老夫婦が上ってきていました。
ペアレントのおばさんも豪放磊落な素敵な方でしたが、
この助っ人の富岡夫妻も明るくて若すぎるほど気持ちの若いお二人で、
夕食は四人で水炊きの鍋を囲み、とても楽しいひとときでした。


しかし、僕はふとある事実に気付きました。
モンモン氏の車に忘れ物をしてきた!
自転車のワイヤーロック(数千円)とアーレンキー(5百円)。
鍵ならうちにあるヤツあげるよ!とおばさんが持ってきたのは、嬉しいけど、百均のヤツだったので、
色々考えた結果、取りに戻ることにし、翌日の目的地を再び阿蘇ライダーハウスに決めました。


逆側から、想定外にもまた訪れた大観峰は、
一転して今日は雨で視界は開けず、前日と全く違う景色。
34分で上った例の坂を、今度は下るわけですが、
ずぶ濡れ、昨今の低い気温、そして延々つづく下り…。
どうなると思います?
体が冷えすぎて過去最高に危険でした。
この道はなぜこうも僕に厳しくあたるのか…!
耐えるしかないので耐えるしかないんですが、
末端からヤバくなるんですね…。
手指と足先が冗談じゃなく痺れていきます。
「スピードワゴン」のあのアツイ暴挙を参考に、
何回か股間に手を入れて「解凍」しました。


そんな体で下ってきた阿蘇内牧で、
入った温泉(100円。ここらの温泉は100円や200円なんです。)が信じられないくらい暖かかった!
前にあったお菓子屋のいきなり団子も信じられないくらい美味しかった!


「(笑)おかえりー」
ライダーハウスに到着すると、連泊中の面々がこたつで待っていました。
映画『地下鉄に乗って』と『黄泉がえり』で感動し、
馬刺しと焼そばと焼酎の味に酔い、
もう一度訪れた阿蘇ライダーハウスは、もう一層面白い場所になっていました。
ザビ氏とサイヤ人氏とバックパッカーさんのお見送りに感謝しながら翌日出発し、
まさかの3日連続の大観峰。
阿蘇ライダーハウスは今日は美しい雲の衣のしたです。


comment (1)


阿蘇は灼熱

2008/12/09 [21:20]

K-1グランプリを皆で観戦して、相手の反則負けで優勝したレミー・ボンヤスキーは、逆に卑怯くさい「逃げ勝ち」だったんじゃないかということで、皆の印象は一致しました。


「優勝は優勝でもこいつは男じゃないっすよ!」
例えばザビ氏のこんな熱い言葉を聞いてしまったゆえに、
少々の悪い気象状況でも、明日、やろう!大観峰タイムトライアル。オレは逃げない!
と夜のうちに心に決めました。


そして迎えた翌朝、
−8度の冷え込みで、窓枠に垂れた結露もつらら状にガチガチに凍った恐ろしい翌朝でしたが、
日中はカラッと晴れ、寒いは寒いけど、自転車日和と言えなくもない気候になってくれました。


昼12時すぎ、リポビタンDをキュッと飲み干して、
ライダーハウス玄関をかっ飛んでスタートします。
ザビ氏が、まさしくマラソンの先導車の要領でバイクで前を走ってくれ、
後ろを固めてくれるのは、心強い、歴代1位の記録保持者サイヤ人氏。もちろん彼は自転車です。
そしてゴールの展望台で、先に車で行き、待ち受けてくれているのはモンモン氏であります。
(お三かた協力ありがとう!)


開始3分で平地は終わり、いよいよ延々つづく上りに入ります。
ていうか既に息があがっているのだが、大丈夫なんだろうか…。
分かるのはゴールまで10キロだという事実だけで、道(勾配とか)が全く分からないので、
どこでどう足を使っていいのか?このペースで最後まで行けるのか?走りながら不安でいっぱいです。


そんな気持ちとも戦いつつ、厳寒の阿蘇外輪山をくねくね上る上る。とにかく上る。ペダルをぐるぐる回す回すとにかく回す。
肺がつぶれそうに苦しいのだが、
何でこんなアホなこと一生懸命やってんだ…
と、日本縦断旅そのもののおかしさにも通ずることが頭に浮かんで、
ちょくちょく、笑ったりしました。


心臓が、たぶん人生初の、燃えるような動悸をして、
カーブの度に広がる雄大な景色に力をもらって、
恥ずかしいくらい真っ白な湯気と息を大量に撒きながら、
そして大観峰にたどり着きました。
展望台駐車場の公衆電話からモンモン氏に電話を掛けた瞬間がゴールです。
苦しすぎて立ってるのもしんどいほどで、
普通に番号を押し間違えてマチガイ電話するというまさかのタイムロスを犯しつつ、
ゴールしました。



記録、34分34秒!


一緒に上ってきたのに、ヘッロヘロの僕の隣で涼しい顔をしているサイヤ人氏のワールドレコード27分には遠く及ばなかったものの、
歴代6位くらい?に食い込む、予想以上の好タイムでした!
嬉しい!シンプルに嬉しい!


空気は冷たく澄んで、最強の快晴で、
地元の人いわく年に一度かというような素晴らしい眺望の大観峰で、
モンモン氏が携帯コンロでいれてくれていたコーヒーの苦味満点の味。(濾し器を忘れたので思い切り煮詰めて作ったそう)
…美味しすぎて美味しいのか何なのかよく分からない。
この旅で、絶対忘れられない味がまたひとつ、できました。


comment (2)


阿蘇は氷点下

2008/12/07 [23:05]

笑うしかない気温−8度。


冬将軍に打ち勝つ。いざ寒波を乗り越えんという熱い気持ちでやってきたのは
阿蘇でした。
今の装備で、氷点下でもしキャンプしたら、寒いとか辛いとかのレベルを越え、デンジャラスなので、
泊まりは、ユースホステルと、そして北海道以来、本当に久しぶりのライダーハウスを利用します。


阿蘇内牧にある阿蘇ライダーハウスは一泊900円。
この寒い時期に行ってみても客は自分だけかなあ…と思いつつ訪ねてみると、
6人の賑わいでした。
しかし驚いたのは最初だけで、すぐに諒解しました。
オーナーさんの熱意というか、心意気が素晴らしいんです。
人があつまる場所。
良いライダーハウスの代名詞を思い出して暖かい気持ちになりました。
そして実際にも、こたつがストーブが、夕食に皆で囲む鍋が、ああ、あったかい。。。


カブ乗りが日本中から集合する「カブ主総会」をはじめ、
多種多様なイベント事も催されているようなのですが、
「大観峰タイムトライアル」に心を動かされました。
自転車で、ライダーハウスを出発して、
10キロ先の阿蘇外輪山の最高峰にして、絶景の有名な展望台「大観峰」のゴールに向けてひたすら標高差450Mを上る、「競技」です。
タイムトライアルなので、一人で、好きなときにやって記録を残せばよい。
(やってみるか…)という気になり、話を聞いてみると、
何と歴代チャンピオンがその座にいました!
サイヤ人氏そのひとの記録は27分あまり。
旅してきた僕の感覚では、標高差450Mはほとんど一日がかりですからね、それを27分で上りますか…!


しかし1万5千キロ走ってきた僕の脚力と心肺機能だって、そんなにヘボヘボじゃあないはずだ、ってことで、
やりたい気持ちでいたのですが…、


寒波の威力が僕の予想をはるかに越えました。
夜、外に出て濡れたタオルをぐるぐる回すと、すぐに干し昆布みたいになりました。
当然のように雪が降り、チェーン規制も出始め、
阿蘇は陸の孤島になる危機に瀕していたのでした。


どうなる!?阿蘇。
…つづく


comment (2)


晩白柚、太平燕、いきなり団子…

2008/12/06 [19:07]

八代で、名産の「晩白柚(ばんぺいゆ)」を食し、これを皮きりに、火の国熊本、味巡りツアーが始まりました。


晩白柚はメロン大の巨大な柑橘類で、今が旬。
味は、苦くないピンクグレープフルーツのようでした。
衝撃的な見た目と、それに裏腹なおとなしい味。
味のツンデレと呼びたいと思います。


熊本市にやってきて食べたのは「太平燕(たいぴーえん)」でした。
熊本の中華料理店には必ずあるが、よそではまず無いという、
隠れ熊本名物で、簡単にいえば、「麺が春雨の長崎ちゃんぽん」
市内の中華料理店「興龍」で食べた太平燕900円、
懐は痛かったけど、とても美味しかったです。
普通の中華麺と違って春雨には事実上味がないので、
鶏ガラ主体?のスープに、その分、かなり深いコクと旨味が持たせてありました。
もしこのスープに中華麺だったら、だいぶクドいはずですね。(一口目だけうまいラーメンみたいな)
そして特筆すべきが、豊富な具材の存在で、
すべて拍子切りに揃えられた筍にキクラゲさらには豚肉、椎茸、人参、白菜がたくさん載っています。
エビやイカなんかとあわせて、さっと炒められたこの具材が実にいい仕事をしてるんです。
味の食物繊維遊園地と呼びたいですね。
熊本を訪ねれば、太平燕、たいぴーえんを忘れずに!


いきなりですが、「いきなり団子」も食べました。
ふかし芋とあんこを、ふっくらもちもちの皮で包んだ、
団子でありつつ饅頭のようなきんつばのようなお菓子です。
皮がおいしいーー
実は、これに関しては旅に出る以前からその存在は知っていまして、
熊本では絶対食べようと心に決めていたんです。
素朴で大好きな味でした。
さつま芋とあんこと皮。
和菓子の千両役者そろい踏みの、味の最強トリオですね。


最後に登場するは、もちろん「馬刺し」。
う、うまい。
スーパー「みやはら」で普通に売っていたやつで、
マグロより安いくらいのお手頃価格でした。
東京や大阪に出荷されては、何倍にもはね上がっていくようですよ。
脂が少なく、さっぱりとしつつも、ちょっとベーコンに似た芳醇な味わいの柔らかい生肉。
球磨焼酎「白岳」の湯割りをちびちびやりながら一緒に食べました。
味の…


…。もういいや、おいしいものはおいしいです。
馬。草原のかわいい馬よ、ありがとう。済まない。うまかったよ。




自転車

2008/12/04 [23:04]

霧島市(国分)で鹿児島湾にひとたび別れを告げ、内陸に入っていきます。


R223、県道50、R268などを乗り継いで、谷あいを快走。
紅葉が美しいです。
JR肥薩線大隅横川駅は建物が重文ということで、寄ってみると、木造のやさしい駅舎で、
あまりに気持ちがよくて、そして誰もいなかったので、
隣の広場で駅舎を眺めながら昼ご飯を自炊してしまいました。


見たことありますか?駅でパスタを茹でる男。
するとロードレーサーのお兄さんがやってきました。
このまま鹿屋まで行き、翌日は佐多岬ロードレース(130キロ)に参加するそうで、
自転車の愉しみにも色々あるもんだと思い、
旅後の自転車との付き合い方について考えました。


週末のツーリング?
通勤?
競輪選手?
ケイリン選手?
いずれにしろ、乗り続けていきたい、いくだろう、と思います。


写真はえびの市のループ。(上り)標高を稼ぐ螺旋状の道です。
この後峠のトンネルを抜けると、人吉市のループ(下り)が待ち受けていました。
そして自分の自転車的志向にひとつ気付きました。
下りより確実に上りが好きです。



桜島 いきり立つ地球の陰部

2008/12/02 [21:36]

佐多岬から、鹿児島湾(錦江湾)を左手に眺めながら海岸を一気に北上すると、あるカーブを回ったところで、知ってはいたが、桜島がドドーン!と現れました。(写真)


でかい!
そして、ゴツゴツした形に黒々とした色、
なにか男気を感じさせる威容で、
桜島は鹿児島湾の真ん中にチン座していました。
そして、近づけば近づくほど、その迫力は度合いを増します。
てっぺん付近からは蒸気か煙か、白いものが吹き出してもいます。


桜島は、大正時代の噴火で流れ出た溶岩により
こちら大隅半島から陸続きになりました。
その繋がった部分の上にある交差点「桜島口」に立ったとき、
朝たてた予定を変更して「桜島一周ラリー」を敢行する意志は既に固まっていました。


一周40キロくらいか、
桜島にあやかって己の男気を磨く道のりです。
黒い溶岩の上の道を激しく走ると、体も気持ちも燃えていき、
おお、明治維新も起こせそうな気がしてきた!


360度どこからみても隆々として逞しい桜島に、僕は憧れを抱きました。
ありがとう桜島だんこん、
永遠にたち続けてくれ!


comment (4)


日本縦断!

2008/12/01 [21:21]

南西諸島を除く日本最南端の鹿児島佐多岬に到着しました!


北海道宗谷岬を出発して500余日、日本列島を縦断しました。
灯台の向こうに、屋久島らしき影がうっすら見えます。
(標高の問題か、種子島は見えず)
後ろから吹き付ける北風に押し出されそうで怖いです。


さて、別にここを旅のゴールに設定してもよかったんですが、
もしそうしていたら、あの屋久島の影をにらみながらゴールの感慨に浸れたかどうか…?
僕のゴールは、
沖縄本島最南端、喜屋武岬であります。
遠く呼ぶのは誰の声…



馬の岬

2008/11/30 [13:15]

江戸時代、宮崎の高鍋藩は、軍用馬の調達の為に県南部一帯に牧場を作り、都井岬(といみさき)にもその一つがありました。


牧場といっても、現在のサラブレッド馬のそれとは違い、
至って粗放な飼い方で、馬たちはほとんど勝手に食べて、勝手に生き、勝手に殖えていました。
その中から随時元気な奴を引っ張って軍用馬にしていたわけですが、
時代は代わり、藩はなくなり、都井岬の馬は、
同じような粗放な飼い方で、地元の民の農耕用の馬の供給元になりました。


そして戦争にも農耕にも馬は必要なくなった現在、
そのまま半ば放っておかれた都井岬の馬は、
(元々そうだったとも言えるが)ただ、普通に暮らしています。
都井岬。つまりここは「野生」の馬に会える岬。


草原と森と崖からなる、自転車であらかた回るのに1、2時間はかかりそうなわりと広いエリアに、
数頭の群れごとに分かれた馬たちが、
伸び伸びと草をはみ、至るところにオシッコウンコをし、たまに駈けています。
ムチなど打たれないで自分の意志で丘を駈ける馬の姿は、実に幸せそうでした。


ファッヒヒイーーーンー!
僕を驚かせて目の前の一頭が鳴くと、
呼応するんですね、遠くから幾つか鳴き声が聞こえてきました。
会話するんならすればいいのに、
投げ掛けっぱなしで、相手が鳴いても気にしないで、黙々と彼は草をはんでいました。


…自由!



猿の島

2008/11/28 [22:22]

イモを海水で洗って食べる「文化人猿」が生息する


ツーリングマップル九州に小ーさく記されているこの文句に惹かれて
幸島(こうじま)へやってきたのは、もう夕方でした。
海岸の砂浜から目と鼻の先の距離に浮かぶ無人島。
あと100年もあれば陸繋島になりそうな感じですが、
残念ながら今は歩いて渡ることは出来ません。
城壁を思わせる岩肌と黒い森、
おかげで人間にも他の猿にも邪魔されず、
100頭の猿は独自の進化の旅を続けてきたわけですね。


「イモを海水で洗って食べるというワザを、彼らは世代交代しながら、群れの内部に伝えている。それは人間だけが持つという「文化」に他ならない。」
ということで、研究対象として、たいへん貴重である。
ということなんですが…


砂浜に佇んでいたお爺さんに訊くと、
(僕にはお爺さんの宮崎弁が半分くらいしか分からなかったので、話を僕が解釈したところによると)
この島の猿が一部で有名になり、
イモを洗う姿を見ようと、人間が船からイモを投げ込んだりしすぎた結果、
島の自然に対して100頭で安定するはずの猿の頭数が増えすぎ、
それによって猿の社会が混乱して、
現在生きている連中はイモ洗いをしない。んだそうです。


なんてことだ…。
洗えない猿はただの猿だ。
俺たち、どうしたらいいすか…宮崎駿先生。


「人間と自然との共生」について考える振りをしつつ、
僕はその気持ちのいい砂浜を本日の宿に決め、
流木をあつめて夜は焚き火をしました。
黒い森に阻まれて一切姿は見えませんが、
騒ぐ猿の声だけが、遊んでいるのか喧嘩しているのか、
この火について何事か吠えているのではなかろうが、
向こうからたまに聞こえてきます。


comment (2)


再び、使者になる

2008/11/26 [23:00]

素人に、人さがしは楽じゃない。


OMちゃんの、宮崎県のもう一軒の恩人の方のお宅を探索します。
住所は聞いているので、地図で見て見当をつけ、
後は、道行く人に聞いて探すのですが、なかなかたどり着けません。
国道沿いの家だと思うんだけどなぁ…。
と思いながらうろついていると、簡易郵便局を発見したので、ここで聞いてみることにします。
局員さんは、超詳細な地図で調べてくれました。(むかし宅配寿司屋でバイトしてたときに使ってた、一軒一軒の名前入りのヤツだった!懐かしい…)
しかし残念ながら、見つかりません。
局員さんは恐縮しつつ、
「本局の方に行って聞いてみて下さい。あちらは配達もしてるので分かるはず。」
とのこと。
で、行ってみると、
「たぶんあの辺りなんであそこのガソリンスタンドで聞いて下さい」
と、意外と素っ気なく言われました。
ガソスタの辺りっていうのは最初から分かってるんだけどなあ…とぼやきながらも、
言われた通りに行ってみたのが、正解でした。


ガソリンスタンドの奥さんが、たまたま目指すYさんの奥さんと友達で、
自宅はもとより、「今たぶん留守だから」ということで、
Yさんの奥さんのやっている美容室まで、
軽トラで僕を案内してくれました。(感謝!)


そうしてたどり着いた「るり美容室」。
奥さんは当然、最初びっくり仰天してましたが、
OMちゃんの手紙とこの使者の頑張り(?)を、非常に、喜んでくれました!
色々ごちそうさまでした。
いやあ、来てよかったな。
自分が楽しむためのこの企画だけど、相手も喜んでくれるじゃないか。


詳しいエピソードは省略しますが、
道を聞いたのがきっかけで、OMちゃんとYさん夫婦は親しくなり、
泊めてもらった恩を(あとバーベキューの恩も)OMちゃんはずっと抱いていくわけですが、
奥さんは言うのです。
「なにか、こちらの方が、感動させてもらってね…」


旅人が恩人に感謝をする。
恩人の方でも旅人に、それに似た優しい暖かい気持ちを持つ。
偶然がつないだ、旅人と恩人の間の美しい絆のようなもの。
奥さんの言葉や表情に、そんなものを感じました。
それは例えば、結婚前の男女の「愛」より、よっぽど尊い気がします。


仕事を終え、僕はまたしても軽くなったペダルを回して、南へ南へと駒を進めました。
沿道のハイビスカスがきれいでした。(写真)



運玉5球

2008/11/25 [20:27]

江夏の21球、しゃぶの5球…


崖にしがみついて建つ鵜戸神宮。
参拝したあとは、これで運を試します。
本殿下の磯にある、亀石の背中のくぼみめがけて、
素焼きにした泥の玉を投げます。
見事入れば願いが叶うというのだが、
ひとりに与えられる玉はわずか5球…。
しかも男性は左手で、というルールがあり、
正直、根拠はないがけっこう自信を抱いて行ったわけですが、
んー…思ったより、亀、遠いぞ!
バカラを観察する沢木青年の如く、
しばらく観察してみたけど、みんな、入ってないぞ!


しかし僕には、絶対に負けられない(!)理由がありました。
静岡は藤枝でお世話になった「藤枝の兄貴Sさん」の心願が僕の玉には込められているからです!
(2007・9・9記事、みんなでつくるPROOF OF…参照)


「1球で決めてやる」
1球目で外したら5球とも外す気が何故かして、
鬼の集中力で投じた初球は…


くぼみわずか数センチ横の甲羅に当たって
砕けて、破片の一部だけくぼみに転がって入りました。
惜しい!


集中が切れてないので間髪入れず投じた2球目は…


またしても、あと数センチ!
でも感触は悪くないぞ!
さらに間髪入れず投じた3球目…


数十センチ!
ちょっとずつ離れていってるな…
これはまずい、ということでここで一息つきます。


負けられないんだ!
気合いを一周回ったリラックスに変えてやる!
そして投じた4球目でした!!
左腕が今までにない「しなり」を見せる!
シャッ…



すっぽ抜けた!
あー、亀にすら当たらずに海に消えていきました。


あ、あ…後がない5球目…!
破片が入った1球目を「入った」ってことにしようかな…(解釈改憲)
いや、だめだ!弱気になるな!軟弱ゥ軟弱ゥ!


シャッ…


真ん真ん中に、ストラーイク!!!
WOOOO
RHYYYYYYYYY!!


comment (2)


使者として

2008/11/23 [21:30]

沢木耕太郎「深夜特急」に触発されて始まっている僕の旅。


その中に「使者として」と題されたある一章があって、
トルコ或いはイタリアで、センチメンタルに展開していく物語に、毎度酔わされます。
自分はまったく知らない相手に、よく知った人物からの手紙を一通届ける。
無意味な移動のなかに意味をさがすのが旅だとすれば、
郵便で電話でメールで、一撃で決着するはずの一通の手紙を遠路はるばる持っていくなんて、
旅にふさわしい愚かさ加減だと思いませんか?


ということで、
僕は、盟友OMちゃんの手紙を、
数人の彼女の九州の恩人のもとへ届けようと、只今預かり持って走っているわけです。



9月、宮崎市郊外、
そこから10キロほど先の道の駅「フェニックス」まで行って夜を明かそうとしていたOMちゃんだったが、
辺りは暗くなり、さらに道に迷ってしまった。
田舎の夜は、都市生活者の度胆を抜くほど、本当に暗い。
焦るOMちゃんを助けたのが、Iさんだった。
(道の駅ゆうても、外じゃし、女の子ひとりであげなとこに…しかも峠の向こうじゃし…)と思ったIさんは
彼女を自宅に招き、急きょ宿を提供してやることにした。
さらには何とその後、
博多ではIさん娘さん宅、北九州ではIさん姪御さん宅にも、
Iさんからの連絡でOMちゃんはお世話になり、
彼女にとって、Iさん夫婦は恩人として忘れられない人になっていたのでした。



Iさんは自宅で板金工場を経営しておられるということで、
その場所を探すのは僕にとって容易でした。
住所てきに近いところに行って人に聞けばすぐ分かるだろう、という気持ちで走っていると、
通行人を見つける前にI板金工場の看板を見つけてしまいました。
Iさんは、「町工場の人の好いおやっさん」といった感じの、優しさ満開の方で、
「何ならあなたも泊まっていけばええです」と、嬉しいことを何度も言ってくれ、
僕は感激しました。


僕はまたまだ先に進むつもりだったので、
手紙と写真を確かにお渡しし、Iさん宅を辞してまた走ります。
道の駅「フェニックス」を「ふーむ、ここかあ!」の気分で通りすぎ、
日南海岸を明るい気持ちで疾走しました。(写真)
いい人といい出会いをした後はペダルが軽い。人間は不思議です。


感激にはしかしまだ続きがありました。
後日、OMちゃんに聞いたところ、
ちょうど外出中で会えなかったIさんの奥さんが、
「今日は寒い日だからコーヒーの一杯でも」と、
「フェニックス」まで僕を追いかけてきてくれてたんだそうです。
会ったこともない僕に対して示してくれる、この人のこの優しさに、僕はどう応えたらいいのでしょう…!



日向路

2008/11/22 [22:31]

豊後の国大分県から、日向の国宮崎県に入ります。


大分から、まず北へ、福岡・佐賀方面に行くか、
いや西へ、阿蘇から熊本へ行くか、
ずっと迷っていたんですが、
あまりの寒さに体が太陽を求めて、宮崎に来てしまいました。
日向(ひゅうが)はもとは「ひむか」と読んだそうです。
日向路。=太陽にむかう道、ということで、今の僕の思いとぴったり重なることに気付き、
走りながらひとり悦に入っていました。


走ります。
じっとしてると寒すぎて凍えるんで、
腹に力を入れて走って、とりあえず鹿児島佐多岬(本土最南端)をめざします。


写真は日向岬。
足がすくむほど深い「切れ込み」…
足がすくむほど危うい突端への遊歩道…
なかなかワイルドな岬でした。




大分一優しい男

2008/11/21 [19:35]

熟睡している間に「さんふらわあ」は12時間の航海を終え、大分港に到着。


九州に戻ってきた僕を、大学の友人ペッティングが再びもてなしてくれました。
再び、というのは、
実は3週間まえ、九州を離れる前日にも国東(くにさき)の彼の自宅を訪ね、
泊めてもらっていたのでした。


ペッティングは、大学を卒業してから故郷大分に帰り、
地域を守る公僕の職に就き、なかなか立派になっていました。
名前も示す通り、大学時代は不真面目な男で、
若気の至りで、ちょっとした「出歯亀行為」を一緒にやったこともあるくらいなのですがね。
月日は移ろい、うーむ、僕だけがまだ馬鹿なことを続けています…。


さて、前回は、辺境の地、国東唯一という居酒屋に連れてっておごってもらい、
今回は、隠れた大分名物、別府冷麺をご馳走してもらいました。
ペッティング、ありがとう!
前回はたまたま帰省中だった奥様のまいちゃんにも、
実に6年ぶりぐらいに会って話せたし、とても楽しかった。満足です。
いつかこの借りを返さなければね。
写真は二人に愛されるうさぎのロビン。太ってます。



金太郎

2008/11/19 [20:57]

加太の淡嶋神社で安産祈願をしてきました。


ひな祭り発祥の場所でもある淡嶋神社は、
婦人病、安産、子授けに特にご利益がある神社なのだそう。
そして人形供養で有名で…


ん?
前にも来たぞ!ここ!
(6・14記事参照)
前回、僕の心からの(!)祈願の甲斐あって、
親しい二組の夫婦の間に、無事、元気な子供が生まれたということで、
大学同期、頑張るなつめぐの為に、これはまた行かねば、ということで5ヶ月ぶりの再訪問です。


そしてもう一度。
どうせ他人の子やし、バカでもアホでもサルでも縮れてても全然いいけぇ元気な子供を!



あらぎ島 生産するコロッセオ

2008/11/18 [08:31]

眼下に現れた「あらぎ島」の造形に見とれて、僕は石と化してしまった。


紀の川を下り、和歌山市に到着。
そこから北へ舵を切り、大阪港へ行くつもりが、
「あらぎ島」の情報を得て、どうしても行きたくなり、
九州がまた遠のくが、さらに寄り道をすることになりました。


あらぎ島…
和歌山県唯一の「棚田百選」選出の棚田で、
有田から有田川を50キロ程さかのぼった山中にある。


「どこ行くんな?こんな山ん中へ(笑)。何も無かろう。」
だいたい中間地点の、明恵の道の駅で、地元のおじさんに訊かれました。
「<あらぎ島>に…」
「島…?この先に、島?」
「棚田の名前なんです。あらぎ島」
「……」
「清水っす。清水ってとこに行きます。」
「ああ清水な!まだ、だいぶあるで!まあ頑張りぃや!」


おじさんは「あらぎ島」を知らなかった。
そして口下手な僕が、何ら説明出来ないまま、おじさんは明るく去っていきました。
しかし、そう、山中に確かに島があるんです。


有田川の上中流は、河岸段丘もほとんど作らずに、
深い谷をとにかく削りながら流れています。
少ない、というか、無いかのような僅かな平地に、
田畑が拓かれ、小さな山村がぽつぽつとあります。
江戸時代前期、清水の村で、
人々は、大きく湾曲した有田川の内側の円形の土地をならして、放射状の田んぼにしました。


水に囲まれた円い棚田。これが「あらぎ島」です。
もちろん今も現役で耕作が続けられています。
写真の通り、何とも言えない、不思議な造形美。
うー………………………ワッ!
棚田好きにはたまりません。
コロッセオのようなピラミッドのような…
それがマチュピチュの場所に在るような…


しかし神殿でも陵墓でもなく、
ただの田んぼなのである!
米を得るためだけに作られたである。


僕は、一日の疲れを忘れ、思考力も失って、
たまらんたまらん…
と、うわごとを言いまくっていました。
円形闘技場の真ん中を貫く道を、
お爺さん剣闘士のカブが一台ポロロと走る。。。
たまらんわたまらんわ…


comment (2)


猫とあそんだ

2008/11/17 [08:18]

国宝の大塔がある根来寺の山門には、ここをねぐらにする猫が数匹。


動物としての猫が好きな人のなかには、
飼い猫より野良猫が好きだという人が多い気がします。
僕もその一人です。
若い野良猫の、生きるために日夜闘っている感じも好きだし、
老いた野良猫の「もういいよ」っていう雰囲気はもっと好きです。
食べること以外に興味がなさそうに振る舞い、
それでいて高尚なことを考えていそうに見える。
無駄な努力なのに、表情から胸のうちを探ってしまいます。


根来寺の猫たちはとくに、
参拝客は攻撃してこないとたかをくくっているのか警戒心が薄く、ぼけっとしていて、
汚いけど可愛かった。
目の前で舟を漕いで寝てました。


猫の一日。
その足で、今度は貴志駅のたま駅長に会いにいく。


たま駅長は和歌山電鉄貴志川線の終着駅、貴志駅の駅長さんで、猫です。
一つ前のなんとか駅まで自転車で行き、ひと駅だけ電車に乗ることで
廃線の危機を救うべく立ち上がった、たま駅長の志に報います。
さぞ乗客は少ないかと思いきや、結構混んでいました。
初めてかも(?)の電車旅を楽しむ余裕もなく、
貴志駅にあっという間に到着し、
瞬時に判明したことには、
一般客はほんの少しで、大半は僕と同じくたま駅長目当てで来ていたのでした。
さすがは、アイドル猫だ。


写真の通り、改札口で勤務中のたま駅長は、
ミーコ助役、ちび助役とともに、
改札はせずにショウケースのなかで背中を舐めていました。
黒・白・茶色、きれいな三毛の毛並みは、ツヤッ艶!
僕の170円も、たま駅長の栄養価の高い食事代に当てられるというわけですね。
美味しいものを食べて、明日も元気に、ストレスに負けないで勤務するんだよ。たま。


アイドルか野良か、あなたなら、どっちになりたいですか?



高野山

2008/11/15 [23:57]

高野山金剛峯寺、奥ノ院に、大師さまは今も生きている。


四国八十八ヵ所巡りを終えたお遍路は、
無事に巡礼を終えられたお礼参りとして、
弘法大師さまに会いに、高野山に登るならわしです。


高野山へは、南海電車も走っていますが、
もちろん自転車で、汗を流して登ります。
麓ちかくのガソリンスタンド「昭和シェル九度山SS、大谷石油店」さんにお願いして、
ほとんどの荷物を置かせてもらい、
空荷で快走しました。
空気はもう冷たくて、標高が高くなるにつれ、吐く息も白くなっていきます。
そして山々の紅葉がとても美しい!
険しい山に挑むような気持ちで走り始めたはずが、
やがて、逆に霊場に引き込まれるような、
迎えられるかのような気持ちになっていました。
八十八の寺のなかにも山岳寺院は幾つもあったけど、
こういう感覚は全く初めてです。


名前の通り高野山(高野町)は、
「高い山の上の平野」で、そこに、金剛峯寺を中心に、沢山の寺院がひしめいています。
(写真は高野山入り口にそびえる大門。左にちっさく門をくぐる人が見えます。)
日本にもこんな所があったのか、と思わせるような、そこは宗教都市でした。


金剛峯寺に参拝してから、いよいよ奥ノ院に向かいます。
延々と続く参道には、
並み居る杉の巨木と、真言宗に帰依したらしい有名無名の人物の数えきれないお墓と卒塔婆。


なんて場所だ…!
霊場のなかの霊場。
この上ない静謐が支配する、永遠の帝国。


そして奥ノ院に着きました。
大師さまの姿も声も僕には分からなかったけど、
確かにそこにいる大師さまに、手を合わせ目を瞑り、
僕は無心に語り掛け、報告とお礼をしました。
ありがとうございました。無事に巡礼を終え、ここに迎えて頂きました。得がたい何かが得られた気がします。


…伝え切れません。
嗚呼、僕は泣く泣く筆を投げ捨てる。
やってください。四国八十八ヵ所巡礼。



ボヘミアン・ラプソディ

2008/11/14 [22:36]

凍える寒さに加えて小雨も降ってきた。風邪で涙目である。鼻水も止まらない。


奈良県大淀町、夕闇せまるころ、
留まるべきだった道の駅をスルーするという、ちょっとした判断のミスから、
僕は「本日の宿さがし」に苦戦していた。


道の駅からだいぶ走り続けて、
暗くなってからたどり着いた小さな町営の入浴施設で、
頼んで軒下にテントを張らしてもらおうと、
事務室に向かい、お願いしてみる。
応対してくれた大淀町の岸谷五郎さんは、優しく訴えを聞いてくれ、
僕は内心、「何とかなりそう」の気配を感じていた。
見回りにくるという警備会社にも電話連絡してくれそうである。
しかし
「んー、構へんのやけど…」
と、いささか歯切れが悪い。
というのも、事務室にはもう一人職員がいて、
後ろでやり取りを聞いている、上役らしい彼女に最終判断を任せているらしいのである。
五郎さんと僕の視線が、大淀町の奈美悦子さんの口元に集中した。


「あそこに道の駅もあるし」


悦子さんは正しい。くれぐれも、悦子は正しい。
でも、寒いんです…。道の駅、だいぶ遠いです…。
彼女の氷の一言に世の中の厳しさを知り、
次をさがすことにした。



道を聞いた大淀町の夏八木勲さんの推薦は、
「地域の公民館」だった。
「あそこは誰か死んだときの通夜や葬式ぐらいでしか使ってないしね。屋根もあるし。」
公民館の類にテントを張ったことはないが、
「公民館」の文字を想起すると、
それは「みんなの建物」という意味である。
みんなのものはオレのものでもある!


たぶん間違った解釈で自分を勇気付けて、
行ってみると、野宿ポイントとしてなかなか好条件である。
よし、今夜はここをお借りしよう。
安堵してチキンカツを食べていたら
どこからともなく樹木希林さんがやってきて、こう言った。
「今日ここ使うよ。一昼夜使うよ。」


誰か死んだらしい。



公民館をあとにして、次に進みながら、
寒くなる一方のツライ状況で、
涙目の僕は逆に笑けてきた。
旅が長くなり、こういう失策をあまりしなくなってきた僕にとって、
この手の試練は久しぶりで、
なんか楽しくなってきたのである。


そして、やがて流れ着いた思いがけない場所で、
「本日の宿さがし」は決着した。
暗くて最初よく分からなかったのだが、


そこは「墓地の東屋」だった。
誰も来ない、来るわけがない、暗闇と静寂の夜。
案外いい夜だ。


comment (3)


飛鳥の恋人

2008/11/12 [22:23]

奈良市から南へ進む。斑鳩、天理、橿原を経て、明日香村へやってきました。


飛鳥時代に興隆した蘇我氏の首領、蘇我馬子の墓とも言われる「石舞台古墳」。
丘の上に巨石がドンドコどんと積まれ、中の部屋、石室も広くてスゴいです。
居合わせた、修学旅行なのか、女子高の女生徒たちもキャンキャン騒いでいました。


規模はさほどでないものの、美しい壁画で有名な「高松塚古墳」。
このほど、文化庁の失態でカビを生やしてしまったという、その壁画は、解体修理のただ中でしたが、(写真はポスター)
代わりに壁画資料館でレプリカを見ます。
玄武、青龍、朱雀、白虎、伝説の四獣と、着飾った人々に四面を囲まれ、
天井に輝く星宿(星座)を仰いで、
土中の石室に眠った有力者のみた夢とはいかに。。。


天香久山、畝傍山、耳成山。
大和三山に囲まれた僅かな平地に、古墳と遺跡が、これでもかと集合しています。
その狭さは、この表現で伝わるか分かりませんが「中学校の校区なみ」。
この中学から日本は始まったのか…。
辺りの狭さに変に心を動かされ、また今の日本の広さを知りました。


comment (2)


なんとみごとな

2008/11/09 [19:34]

奈良駅の手前で、平城宮跡は、近鉄電車の車窓からいつもほんのひととき現れます。


ほう、ここが平城京か。
と感慨に浸ろうとすると、さっさと電車は街並に飛び込んでいってしまう…。
東大寺や興福寺や春日大社と違って、
平城宮は今は「ただの広場」なので、奈良観光では外されがちで、
小学校の遠足から始まって、幾度となく奈良に来ていても、
平城宮跡には僕は行ったことが無かったのでした。


というわけで、
いつも車窓の外を口惜しく流れて去る宮を、今回はゆっくり感じてきました。
ちょうど昼時だったので、弁当を買っていきます。
広場の真ん中北の一段高くなった場所は、
平城京の中心であり、天皇がまさしく政を行った「太極殿」の跡。
ここは地元の人の、ちょっとした憩いと安らぎの場所になっていて、
広大な平城宮跡を渡る風に体を委ねて
気持ち良さそうに昼寝する人の姿がちらほらありました。
ある人が目を覚まして去ると、次にやってきた人がまた横になり、
こっちでゴロリあっちでゴロリ。


気持ち良すぎる太極殿に、僕は自転車を担いで上がり、
「かまどや」の唐揚げ弁当を食べ、そして、


昼寝をしました。


comment (3)


拾いにいこう

2008/11/08 [12:14]

そういえば、奈良県に足を踏み入れていなかった。


大阪港から再びフェリーで大分・別府に戻って九州の旅を再開する予定ですが、
その前にちょこっと寄り道して、
秋深き古都奈良を走ることにしました。


枚方を出て、木津川のサイクリングロードを快走して南下します。
旅に出る前に、トレーニングがてら、よく走っていたこの道…。
若かったあの頃、何も怖くなかった。
ただ、出発するのが怖かった。。。
ススキが揺れ、野焼きの煙がたなびいて、
つめたい11月の風が川を渡っています。
洗い髪が芯まで冷えて、
ペダリングの度に、調子の悪いギアがカタカタ鳴るのでした。


拾いにいこう
置き去りにしていた奈良県の道標と、
平城・飛鳥、古代王朝の残り香を、
名曲を思い出すように拾いにいこう。



小さな大物

2008/11/05 [23:20]

一昨年にはオマールとゆきちゃん(8/30付記事参照!)、昨年にはローパンとなつめぐ(2007/10/8付記事参照!)が結婚。そして今秋もまた、同じくD大学ヨット同好会同期であるプッチと、いちみちゃんが結婚式を挙げ、大分からフェリー「さんふらわあ」に乗り、大阪は天保山に駆け付けました。


僕が1円の金にもならないこの旅を長々とやっている間に、
仲間が次々と幸せを掴んでいきます。。。
しかしプッチは
僕の旅を、「クリのしゃぶさんとしての活動は…(以下略)」と言ったことがあり、
金になることをやるのが「仕事」でそうでないのが「遊び」だとするなら、
遊びまくりの遊びほうけとなる僕の1年数ヶ月を
「活動」なんて画期的な表現で捉え得ることをそのとき僕に教えてくれたのです。


いい年して、こんな、いつまでも遊んでばっかでいいんか?…はあ…。
という、後ろめたくて、不安で、苦しいような気持ちが、常に纏わりついて離れないわけですが、
「活動」っていう言葉は本当に発明みたいなもんで、
僕の頭のなかの「仕事」と「遊び」の二類型を見事に粉砕してくれました。
そうかオレは遊んでるじゃないんだ。
たまたま金にならないだけで、「活動」してるんだ!


言葉がときにどれほど人を癒し、
ときにどれほど人を勇気づけるか、
人と人とを繋ぐか、
プッチほどこれに知悉する人を僕は知りません。
今日はとくに、
マイクを握ってもなお、おかしくならない、彼の「話す力」をまざまざ感じて、
心のなかで何回も唸りました。


写真は、プッチ自身が描いたウェルカムボードの一部で、
プッチの隠れた画才に僕らは初めて気付いて感嘆したけど、
この程度の絵を描く奴はな、プッチ、
ゴマンと居るさ。
クラスに3人はいる。
でもお前はヨソの分野で、
絶対に、只者じゃないんだぜ。



プッチのことばっか書きましたが、いちみちゃんも、
とても素敵でしたよ。
指輪交換のとき、ベール越しに見える両のまつ毛がパタパタ…
うちわみたいになっていて、本当に美しかった。
みんなが笑っているとき僕は泣きました。


comment (6)


かかしワールド!

2008/11/02 [13:01]

別府から内陸へ入り、秋色にかがやく雄大な由布岳(1583M)の山麓の道(R500、県道11)を走り、湯布院へ。


しかし行楽シーズンただ中の今日の湯布院は、
観光客で小さな町がごった返していたので、
また今度。と、あっさり通過しました。


大分県の内陸部を奥へ奥へと進みます。
玖珠(くす)、日田を経て、山国(やまくに)というのどかな山村にたどり着くと、
「かかしワールド」なるものが開催中でした。


といっても、
刈り入れが終わった田んぼに、手作りの案山子がいっぱい並んでいるだけの、ほのぼのしたお祭りです。
町内数ヶ所にそういう田んぼがあって、面白かったので探訪してきました。


色んなかかしが居たんですが、
今年度のグランプリは絶対にこれだと思います。(そんなのあるか知らないけど)
酔い潰れたじいさんと、それを連れ帰ろうとするばあさんの、かかし。
『父ちゃん、どきいちょるかと思うたらこげなとこ寝ちょら、早う帰るばい風邪ひくばい』


僕の筆で伝わるか分かりませんが、最高に面白かったです。
すばらしいアーティストが、この山奥のちっさな村にも普通に潜んでるんですね。
何か嬉しくなりました。
アメリカンジョークみたいなんが僕は絶対許せないんですよね。
日本に生れてよかったな!


comment (3)


別府温泉郷

2008/11/01 [02:52]

気の遠くなるほど大量のお湯が、毎日湧きに湧いている別府温泉。日本一の源泉数、日本一の湧出量だそうです。


市内には、探さなくても共同浴場(つまり銭湯)がごろごろあります。
しかも多くは100円。無料のところすらあって、素晴らしい。
昼夜かまわず何回も入りました。
(写真は鉄輪温泉「渋の湯」)
公衆トイレの手洗い水も温泉だったり、
道ばたの側溝にも普通に温泉が流れていたりします。
市内には、別府八湯と呼ばれる温泉街が八つ。
それぞれ泉質に差異はあるものの、
全体としては、万人に愛される、無色透明で香りの薄いあっさりした風味の湯のようでした。
そして共同浴場では、どこも湯が熱い!(伝統だそう)


「若者、熱かろ、この熱さが温泉よ」
「肩まで入らにゃあ、若者」
耐えながら言われた通り肩まで浸かると、
あーーーーーぢいー!


地元のじいさんたちの呑気な笑い声が高い天井に響くなか、
僕のトライアルは続くのでした。



四から九へ

2008/10/29 [18:45]

約1時間の船旅で、フェリーは大分県の佐賀関に向かいます。


人生初の九州上陸だ!(下関から目撃はしたけど)
否応なく気持ちは昂ぶります。
豊後水道は潮流の激しい荒い海だということですが、
感じる分には今日は穏やかで、青い色だけが際立っています。


佐田岬の三崎港にて、道連れのOMちゃんとようやく別れました。
今治〜佐田岬、愛媛自転車ふたり旅、心底たのしかったです。
OMちゃんはこのまま四国を一周し、神奈川のゴールへ向けて太平洋沿岸を走ります。
無事に旅を終えられることを祈ります。
気を付けて。
そして道中にお住まいの皆さん、
フル装備のGIANT社のグレートジャーニーにまたがったメガネの女の子を見かけたら、その娘です。
何か食べ物を(笑)。
清々しいほど気持ちよく受け取るはずですので。


カモメを見ながら僕は夢想しました。
僕の旅が、ミラクルで本になり、さらには映画になったとき、彼女の役は誰が務めるだろう、と。
デッキでひとり考えを巡らせていたら、若い船員が
チャリ旅ッスか、いいッスねー。いや僕もね…
と急に気さくに話し掛けてきました。
たぶん僕は、
普段の、苦みばしったニヒルな横顔(!)でなく、
親しみやすい、ユルユルふにゃふにゃなニヤけ顔をしてたんだと思います。


「それガッキーしか居ないッスよ!ガッキーでいきましょう」
プロデューサーが乗り気になってきたのでした。



岬にあるもの

2008/10/27 [21:17]

愛媛県伊方町(佐田岬半島)。豊後水道に突き出した、鋭い矢のようなその形を、マップの方でぜひ確認してみてください。


こんな個性的な場所は、是が非でも行かねばなるまい。
というわけで、
いかにも険しそうな行程にやや難色を示すOMちゃんを引っ張って、
半島付け根の八幡浜から、実に2日がかりで、佐田岬の先端まで走りました。
峻険なリアス式海岸、やはり、UPDOWNがきついです。
半島を貫く国道(R197)は、メロディラインという愛称が付けられていましたが、
高低に激しいロックなメロディでした。
…たまには優しい演歌も聴かせて!


♪酒は熱燗 佐田みさきー
鳥羽一郎の名曲「佐田岬」を思い出したり忘れたりしながら、
西へ西へとひた走る。
秋。愛媛は今みかんの季節です。
まわりには、森か海か、そうでなければみかんの段々畑が広がり、
よく見ると青や黄色の実がわんさか生っています。
(おじさんにもらったみかんは本当に太陽の味がしました。おじさんありがとう。)


そして尾根には、先へ行けば行くほど、
風力発電の風車がズラリ立ち並んでいて、壮観。
真下に行ってみると、これがまた面白い!
ぐリン・ぐリンとブレードがスウィンぐして、
その巨大な影が、下に居る僕らに襲いかかるようにこれまたぐリンぐリン来ます。
「(ブレードに)しがみついてみたい」
OMちゃんは、よく分かるような全く分からんようなことを言って、感動を表現していました。


そしてたどり着いた佐田岬灯台で、
僕らをその美しさで虜にしたのは、


海に沈む夕日でした。


き、きれいすぎる…
濃いみかん色に光り輝いてゆれる海面に、
漁船が一隻、ゆったりと波をひいていく。
太陽はみるみる高度を落としてゆくのに灯台の時間は半ば停止して、
虜になった旅人は、
たまに思い出したようにシャッターを切るほかに何も出来ませんでした。


やがて夕日は沈み、茜色の西の空に、
交代で金星が一個、見事に打ち上がった。
しかしそれは、
その後につづく、満天の星による長い夜の宴の始まりに過ぎないのでした。
「きてよかった…」
彼女が小さく洩らしました。


comment (1)


大洲郷土館 YH

2008/10/24 [15:48]

本当に久しぶりのユース泊。大洲郷土館ユースホステルはとても気持ちがいいところでした。


建物は古いけど、掃除が行き届いていてきれいで、快適です。
洗面所に綿棒が、電子レンジ横にはキッチンペーパーが、さりげなく用意されていたり、
談話室のテーブルにはポットのお湯とインスタントコーヒー、さらにミカンも積まれていて、とても気が利いています。
そして客室のカーテンを開けると目の前に大洲城、
談話室からはゆるく蛇行した肱川の流れ。
伊予の小京都、大洲のたおやかな空気が、
ここに居ながらにして十分に感じられます。


お客の満足度は、談話室のアルバムに収められた、玄関で撮った全宿泊客のスナップ写真の表情にも出ていました。
お遍路さんも多い。サイクリストも、外人さんも多い。
皆の旅はこの城の横のオアシスで交差しているのですね。


門を曲がって見えなくなるまで、
ペアレントさん親子がおもてで見送ってくれました。


さあ、今日も漕ぎますか!
ペダルに力がこもります。



もらいすぎサンダーロード

2008/10/23 [19:57]

上尾峠を上り切ったところで、汗を拭いて休憩していると、 松山からバイクで水を汲みに来たという、歯抜けのオジサンが話し掛けてきました。


人の好いオジサンは、
袋いっぱいのトマトと手ぬぐいを2枚、くれました。
オジサン、ありがとう!
OMちゃんは相手の言葉がよく聞き取れなくても、
愛想よく会話していました。
この女…!


歯抜けオジサンの水場で、僕らも水を汲もうと訪れると、
同じく松山から来たご夫婦の先客が居て、激励をもらいます。
そして、その先の道の駅「ひろた」にて、
おはぎと柏餅の昼ご飯をご馳走になりました。
ご夫婦、ありがとう!


さらに、そこの駐車場で野良猫と遊んでいると、
前に松山のドラッグストアで会っていたおばさんが
「またお会いしましたね(^-^)」とやってきて、
ゆずクッキーをくれました。
おばさん、ありがとう!


頂きもの数珠つなぎです。
ありがたい限りだ。
そしてOMちゃんは、軽やかに爽やかに物をもらう。
「いーんですかー!ありがとうございます!」
電車で人に席を譲ろうとして固辞されてばつが悪い感じになるときありますよね。
あの正反対な感じで、素直で、いい。


旅が、素直な人をより素直に、優しい人をより優しくしていくのなら、
自分の娘にも、心配すぎて胃に潰瘍を作ってでも、僕はひとり旅をさせたいところです。



銚子ダム

2008/10/22 [20:20]

国道脇の森の中にあった「銚子の滝」(写真)で、眠くなるほど心地いい水音をひとしきり聴いて、「銚子ダム」に到着。


ダムに自転車を漕いで行くとなると、
目指すダムに出会うまでに、
滝はなくとも山や森の空気を、長時間、存分に吸うことになります。
その前段階のおかげで余計、
ダムが、巨大な人工物として際立って感じられて面白いというわけです。(サイクリングのススメ)


人間と自然との間にそびえる堰の、ああ、この雄大な落差。


四国は今、水不足なので、ダムの水位も標準よりかなり低くなっているようでしたが、迫力は十分でした。
僕らはテンションがあがって、
道連れのOMちゃんが
堰の上の道路から、柵を乗り越え、
遥か下の谷底に向けてロックフィルダムの斜面を駆け降りていきました。
「おい、もうその辺でいいって!」
そもそも行けと(半分冗談で)言ったのは僕ですが、
サイレンでも鳴りはしないかと、
小心な僕はヒヤヒヤしてキョロキョロしてオドオドしました。


女は強し。
男と女の間にそびえる堰の、ああ、この落差の泣き笑い…。



とべ!クマタカ

2008/10/21 [15:03]

当たり前だけど、道中、八十八ヶ所の寺々とその案内看板がそこかしこにあって、早くも懐かしい。今日は52番太山寺の近くを通り、ああ、そう、こんなところだった、と回想しました。


道後温泉に再び癒され松山を過ぎ、
南に舵をとって、砥部町でとべ動物園に立ち寄ります。


ホッキョクグマの「ピース君」が顔役を務めるこの県立動物園。
軽い気持ちで行ってみたにも関わらず、2時間はたっぷりと過ごしました。
閉じ込められた動物たちのイライラした感じがやっぱり気になるときもありましたが、
素直にとても楽しかったです。
動物園て大人が行っても楽しめるものなんですね。
ただふと思うのは、
動物園でなく、ジャングルやサバンナで自由に生きるこの動物たちにもしばったり会えたら、
その激烈な感動はこれの比じゃないだろうなということです。
当てはないけど、行きたい場所は無尽蔵…。


♪人間ってすごいねー
♪感動できるなんてさー
(浅井健一)


写真の凛々しい面はクマタカの「徹平」。
森の王者の誇りが顔に出ています。


comment (2)


再会・再会

2008/10/18 [21:43]

今治城のお堀の水面を物憂げに眺める、 薄汚れたかっこの若い女の子を発見しました。


下関で別れた神奈川の大学生OMちゃんの再登場です。
僕がお遍路で四国を一周した間に、
彼女は九州・沖縄を制覇して、
しまなみ海道を自転車で渡り、四国に入ってきました。
独りで、カラオケ店に泊まったり吉野家にもガストにも平気で食事しにいけるタフなハートも素晴らしいけど、
女だてらに、自転車日本一周とは、まことにすごい体力です。


連絡を取り合っていたものの、再会できてうれしい。
噛みしめつつペアランしていると、
頻繁に歩き遍路の白装束にすれ違います。
流れるプールを逆走するようなもので、
四国を反時計まわりしていると、
お遍路さんの数がいつもより多く感じられるのですね。
こんなにいたのか…。
といっても1日走って10人とか、そんなですが、
毎回、知った人じゃなかろうか、と気になります。


中には自転車遍路の人もいて、おお同好の士。という気持ちで挨拶すれば、
ん?



師匠!
師匠ではございませんか!
お遍路初日に出会い、親しくなった親爺さんにまた会えました。
固い握手をしました。室戸以来ですね!師匠。
そしてまた例によってこの先の耳寄りな情報を頂きます。
僕たちのコミュニケーションは、こればっかです。(それがいい)


「またお会いできて良かったです!」
この台詞をこんなに心の底から口にしたことはありません。
「ああ、またどっかでな。俺は四国ずっと回ってっから。」


親爺さんは既に、
そのまま連続で7周目に入る決意をしていたのでした。



The 6th Leg

2008/10/15 [21:57]

神戸からフェリーに乗り、高松港に再入港。さあ、日本縦断ゴール地に設定した沖縄本島最南端、喜屋武岬(きゃんみさき)に向かいます。


前は一心不乱に88の寺を回って一周した四国を、まず横断してから九州に渡る計画です。
昨夜は、自転車と荷物を置かせてもらっていた高松の伯父伯母宅に泊まり、二人と三匹の犬に再び元気をもらいました。


泣いても笑っても最後の第6レグだ…。
史上最高に気持ちいいトップホーンが聞けるよう、頑張ります。


秋らしい快晴の空の下、張り切ってスタートしました。
皆さん!
さいごまで、
どうぞよろしく!


comment (3)


松ヤニの時代 その2

2008/10/14 [13:08]

B集団の「偉大なる善人」SHUの結婚式で、関東組もこちらに里帰り。自転車日本縦断中の奴も旅を中断して戻ってきて、京都に12人が集まった。


「同じ釜の飯を食った仲」
などという爺々くさい表現の意味するところが、
こういうことか、と理解できる程に僕らは年を取った。


僕らの場合は、言うならば、
「同じ松ヤニで手指を汚した仲」。
そうか、松ヤニの粘着力は集団を永遠につなぐ力を持っていたのか…


SHUのメモリアルな一日に皆に会い、弾みをつけて、僕はラストランを頑張ります。
皆はお仕事に子育てに子作りに頑張ってください。
昨日の企画者のキャプテン、今日の夜の幹事のレフティ、ありがとう。
そしてSHU、改めて、結婚おめでとう。


comment (2)


松ヤニの時代

2008/10/13 [14:51]

「集合よ」


キャプテンの呼び掛けでB集団の面々が集められ、ハンドボールをやってきました。
メンバーは、ごりくま、しげ、イナヴァ、キャプテン、サウスポ、アシスト、眼鏡、マスター、(登場時刻順)
あと数名のB集団Jr.と、
そして当時の顧問の大森先生(!)。
先生が来てくれたおかげで母校グラウンドを使うことができ、
詳しい経緯は全く知りませんが、
休日をかつての生徒の為だけにこんな風に使ってやれる先生の隠れた親心に大感謝です。


UPから三角パスから密着3対3、ずらし、セットに至る、昔日のフルメニューをこなして、
ゲームでは先生がキーパーに入ってくれ、イナヴァがフィールドプレーヤーに回り、ぎりぎり7対7でみっちりやれました。
めちゃ楽しかった。来れなかったメンバーは次回を楽しみにしててほしい。


個人的には、10年越しの夢、念願のPTがついに決められて、何かぐっときた。
つらいばっかりだったハンドボールをそれでも最後までやっててよかったと思いました。


寝屋川の和民で飲んだ後、揃って北新地へ向かう。
コイデ先輩の結婚お披露目パーティーを店の前でサプライズ出迎えするためだ。
先輩たちと一緒にやる声出しは自然と腹から声が出た。
上垣先輩は全員の名をすらすら言った。
気合い入れすぎで、くいしばった中村先輩の前歯は欠けたが、
ここでもう一度言いたい。


ハンド新世紀。
そしてスポーツは素晴らしい。


写真は、部室の壁に今も生きるN高校ハンドボール部のマスコット、ルートムーミン。



深夜特急

2008/10/08 [01:02]

残すところ九州と沖縄だけになってしまいました。


しばらく更新が止まっていましたが、元気です。
4日の兄の結婚式に出席するため一時帰宅し、
さらに、来週末にあるB集団SHUの結婚式の日を待ちつつ、最後の休養をしています。


ところで、
旅が長旅になればなるほど、それに入れ込めば入れ込むほど、人は
<旅の終え方>
に苦慮するものらしい。


「深夜特急」の沢木青年も、地理的なゴールが近づいてくるに従って、逆に焦り、迷いだす。
その辺りのひとり問答がまた彼らしく、読者には面白いのだが、
当人は大変である。
旅の麻薬的な魅力にやられ、一生を旅のなかに過ごす人もいる。
それはそれで幸せなのかもしれないが、
少なくとも僕には帰る家がほしい。
放浪じゃない旅なんだ、という自負のような気持ちもある。
青年沢木の旅は
ポルトガルの果ての岬で、
「終わりにしようかな」という、
限りなく単純でいてそして感動的なセリフとともに、美しい結末(事実上の)に至った。
その後の氏の活躍を既に知っている、というプラスアルファも無くはないが、
それは美しい幕引きで、つまりハッピーエンドなのである。


僕の深夜特急も終着駅が迫ってきた。
どうやって終わる?どうやって終われる?
と去年の今頃は考えていたけど、
何故か今は、とてもすんなり終わらせることができる気がしています。
最終レグは果たしてどんな旅になるでしょうか。


comment (2)


結願(けちがん)成る

2008/09/29 [22:42]

88のチェックポイントを通過しつつ、四国を疾風のごとく駆け抜けた3週間。


八十八番札所大窪寺は、一番札所霊山寺と同様、白装束の沢山の人で賑わっていました。
逆まわりで、ここからスタートする人や、途中の札所から始めている人もいますが、
多くの巡礼者にとってここがゴール、結願の場所です。
山中の厳かな寺院でありながら、だから華やいだ雰囲気があり、
笑顔いっぱいの「おめでとう」や「お疲れさま」の声で溢れています。
そして僕はそれに「ありがとう」を足したい気持ちになりました。
弘法大師さま、ありがとう。
無事に巡礼の旅を終えることができました。
得がたい何かが得られた気がします。


灯したローソクの、炎の揺らめき、
流れる、線香の細い一本の煙、
それらが何か自分の命の燃えている様に見えたとき、
自分の、最もコアな事実を理解しました。


今、生きているということ。
若い肉体に力はみなぎっているということ。


霊場を作った弘法大師さまは1200年前に亡くなっているが、
おお、偶然にもオレは、今、生きているじゃないか。
巡礼ができる。旅ができる。人に会える。食べ物がおいしい。


これまでの人生を思い返すと、
「満足」をはるかに越える数の「後悔」に潰れそうになる僕ですが、
第5レグを<八十八ヶ所霊場巡りの旅>にして良かった。
大事なことが、あの栗原のホームランボールのように、
しっかりと手中に納まったからです。
大師さまの本意が別なところにあったとて、誰に文句も言わせない、勝手に、僕は大師さまに感謝します。


comment (10)


ゴールは近い

2008/09/27 [11:00]

小雨のなか、早朝、泊まっていたネットカフェを出て自転車のところにいくと、 自転車にビニール袋がかぶせてありました。


「掛けときましたよ(*^_^*)」
店員の女の子がそう言ってスマイル。
見るからにもう来ることがない客なのに、この思いやり、素敵です。
これぞ四国の心、でしょうか。
朝から、香川の塚田真希の笑顔に元気をもらって、
今日は幸先の良い動きだしでした。


八十一番白峯寺、八十二番根香寺は、最近むしろ好きになってきている山岳寺院。
八十番国分寺に自転車を停めておいて、歩いて登ります。
自然に抱かれた往復約6時間の山歩き、
嫌でも人生に前向きな思考ばかり浮かびました。


遍路は自分の足で回るに限る。
一度歩き遍路をやって、二度目クルマでやる人はまずいないと思います。
僕も、死ぬまでにもう一度やることがあるだろうか?とよく思いますが、
次は歩き遍路の可能性が高いですね。


さて来たるべきその日の脚力はいかに?


写真は国分寺の鐘。
奈良時代、聖武天皇の古より、深い音色を響かせつづけています。


comment (2)


讃岐うどん

2008/09/25 [20:39]

うどんを食べつつ、今日は12の霊場を順拝しました。


過去最多です。弘法大師さま(=佐伯真魚=空海)はこの辺りの出身なので、
狭い地域に霊場が集中して多くあるわけですね。


六十七番大興寺は、静かな山際の村にある落ち着いた寺。
この山門の両側に、鎌倉時代からずっと立ち続け、
参道に睨みをきかせている仁王さんが立派です。(写真)


観音寺市の六十九番観音寺。
善通寺市の七十五番善通寺。
ここら有名寺院にはさすが、広い境内に人が沢山いました。
つまり東大寺や金閣寺が常に人で賑わっているように、です。
もちろん、参拝にお金は要りません。
いくらお賽銭を入れるか(入れないか)自分で決められます。
京都や奈良の寺の<拝観料>はどういう使われ方をしているのでしょうか…。


田園地帯にどんと建つ七十番本山寺は、
本堂が国宝で、五重の塔も大変美しい。
ベンチに座るとまた寝てしまいそうな、優しい音楽が聞こえました。


寺々には個性がたっぷりとあります。
それを感じるのがとても楽しいです。
1日に12ヶ所も回ると、どこがどんなだったか、既にあやふやであることを白状しますが、
しかし楽しかったです。



雲の中へ

2008/09/24 [23:15]

六十五番三角寺で愛媛県は終わり、次の六十六番雲辺寺は、香川・徳島の県境の峰の上に建つ。


三角寺も山の中にあり、結構時間を消費していて、
雲辺寺の麓の街、豊浜に着いたときには既に日が傾きだしていました。
標高900メートルを今から登るのは無茶かな?
と迷いながらも、とりあえず自転車で、前方にそびえる山並みに近づいていきます。
だんだん勾配がきつくなってきました。
八十八ヶ所の最高地だけあって雲辺寺にはロープウェイが引かれていて、
歩き遍路でない人は普通これを利用して行く。
当然僕としては、自分の足で行きたいが、日没が近い…。
結論を出せないまま、ロープウェイ乗り場に着いてしまい、
いざ着いてしまうと、人間の思考とは不思議なもので、
人波に流されて、迷わずキップ売り場に並んでしまいました。


待つこと5分、
(ん?)
遠くに、ちっちゃな看板が見えました。
<雲辺寺登山口こちら→(徒歩2時間)>
…徒歩2時間ということは往復3時間半…今3時半だから帰りは…7時!
無理だ。危険だ。やっぱロープウェイだ。
諦めて列に並ぶ。
あと3人…
あと2人…
あと1人…

いいのか?
いいのか!?しゃぶ!


自販機に駆け寄り急いでポカリを買い求め、
登山口に突進しました。


雲辺寺に通じる登山道には、いくつかルートがあるようで、
いわゆる、「へんろ道」、巡礼者が昔から使い続けている道は、
こことはどうやら別らしく、
ここは誰かが歩いた形跡が薄く、うっそうとしていて、
何より道をふさぐ蜘蛛の巣がスゴい。
マンガみたいな巨大蜘蛛がタコ糸で編んだみたいな蜘蛛の巣を張っていて、
それを破りながら進むのだが、
このペースじゃ日没がまじでやばいぞ!
ということで汗のうえに汗がまた吹き出ました。


吊りかけるふくらはぎを励まして、大師さまと二人、
苔が付いた石段を駆け、危なっかしい崖を這い、ぬかるんだ土を踏んで、登って登って登り倒す。
そうして午後五時、ようやく雲辺寺にたどり着きました。
海も街も、通ってきた道も、霞んでしまってよく見渡せない。
涼しい風が吹き抜ける雲辺寺は、
本当に雲の中にありました。


しかし呑気に感涙してはいられません。
すぐさま来た道を引き返します。
1時間半で登った道は1時間で下れるかと思いきや、
かなり急いで登って1時間半なので、
下りも1時間半かかりました。(下りは楽だけど、急ぎようがないのだ)
さっきまで人で溢れていた、がらんどうのロープウェイ乗り場の駐車場に困憊して帰ってきたとき、
ちょうど西の地平線に日が沈んでいくところでした。
街を見下ろし、若者がひとり吹くトランペットの音が
何かの始まりを告げるように、高らかに、響いていました。


  遍路旅険しさこそが愛おしい泥の眠りとこの高い空



肉体のすきま風

2008/09/23 [20:34]

六十番横峰寺はなかなかの高所にあり、難所であり、気持ちの無い者は先へは行けない「関所」のひとつに数えられている。


八十八ヶ所のうち最高所にあるのは、明日行く六十六番雲辺寺。
続いては十二番焼山寺で、三番目が横峰寺である。


自転車と徒歩でぐいぐい登る。
「同行二人」
独りであっても、いつも大師さまは全ての巡礼者の心に寄り添ってくれている。
だから僕達は安心して、辛い道のりに挑むことができる。


山道を駆け上がりながら僕は、大師さまの肉体を勝手に想像した。
あっちの山、こっちの岬で厳しい修行をし、また寺を建てて回ったのだ。
きっと無駄な肉のまったく無い、
マラソンランナーのような
極限に引き締まった美しいお身体が、僧衣の下に隠されていただろう。


無駄なものを削いでいくと、人はその分純粋になっていく。はずだ。


自分の腹を見た。
これだけ走っても、まだまだ落とせる肉が僕にはたくさんあるようだ。
よこしまな心は捨て切らなくとも、
肉体くらいは、大師さまにあやかって美しくありたい。そう思う。



坊っちゃんスタジアム

2008/09/22 [09:06]

伊予の国愛媛県に入り、巡礼の旅も後半へ。


四十三番明石寺まで行ったところで、今回の台風13号が迫ってきていました。
山のなかで足止めされると辛いので、
一気に松山に向かいそこで台風をやり過ごして、
飛ばした札所は後から回る戦略を立て実行しました。
結果、松山で3連泊。
アーケード街「大街道」で、道後温泉で、気ままに過ごしました。
現在、五十六番泰山寺まで参拝したところです。


写真は道後温泉本館。400円〜入れます。
「千と千尋」ぽい感じだったのであとで調べてみると、
実際、油屋のモデルになったんだそうですよ。


夜の松山は、街灯が落ち着いたみかん色で、郷愁を誘う。
カタコト進む路面電車を野良猫が見送っていました。


comment (2)


アリを燃やす

2008/09/19 [10:54]

三十八番金剛福寺のある足摺岬一帯は、かつお節のおいしい匂いが流れていました。


土佐清水に小綺麗な公園を発見して、野宿すると、
夜には分からなかったのだが、ここはアリがすごくて、夜明け前にアリで目が覚めました。
頭が茶色くてちっちゃい変なアリが大挙してテントに侵入し、食べる気なのか、僕を襲っていました。


馬鹿だけど生きるのに必死なアリを、テントを振って一ヶ所に集めて、ガムテープで捕捉して燃やしました。
不殺生の禁を破ってしまった…。


海の駅とろむで雨宿りして時間を過ごす。
手乗りサイズのハコフグが水槽を延々泳いでいました。
もう、いいから食べちゃって!
と言ってる気がしました…。


アリって確か酸っぱいんよね?



ボーイズオンザラン

2008/09/17 [12:35]

真偽の程はあやしいものの、明徳義塾高校時代の朝青龍、ドルゴルスレンダグワドルジが、足腰を鍛えるために日夜駆け上がったという、三十六番青龍寺の石段を上ります。(写真)


(ほどほどの強さの朝青龍など見たくはない。
がんばれ朝青龍!)


続いて40キロ先の、三十七番岩本寺まで、
大小の峠に練馬くんと共に立ち向かい、
さらに40キロ先の黒潮町入野のキャンプ場にたどり着いたときには、もう薄暗く、
今日は朝から晩まで走り続けた気がします。


海あり山あり橋ありトンネルあり、
上下左右に振られまくる盛りだくさんの125キロは
我々ふたりの、篤い友情と隠れたライバル心の火花散る、熱闘ロードでした。
日さえ沈まなければどこまでも走り続けたかもしれません…。
テントを設営して中に入ると、
隣の若い男女の集団の宴など関係なく
瞬間で眠くなってきた。


ボーイズオンザラン、
両脚にたまった疲労物質のこの満ち足りた重さ。



高知ファイティングドッグズ

2008/09/16 [08:46]

三十一番竹林寺に参拝するため、高知市内を見下ろす五台山を駆け上がる。


中腹で、菅笠に笈摺をまとった、お遍路装束のサイクリストを発見し、
息を切らしながら、
どこから来たかとか、今日が何日目かとか、いつもの会話を交わします。


ところで、
クラス替え間もない春先、話したことがなかったクラスメイトと、体育の時間に同じチームにでもなって、
不思議に急激に打ち解けた経験が、男なら必ずあると思う。
口下手な僕にとっては特に、
体育の時間はそういう面で貴重な時間でした。
男同士の心的な距離を縮めてくれる、嗚呼、一本のパス!
五台山の木漏れ日の急坂をまさしく上りながら、
初対面の彼、練馬くんと話していて、
僕は久しぶりにこれを思い出しました。
スポーツって素晴らしい。
女子には分かるまい。(知らんけど)


さて、そんな風に出会い、すぐに親しくなった東京都N区から来た大学生お遍路サイクリストの練馬くんと、
ちょくちょくそれぞれの走行プランゆえ、離れながらも、概ね一緒に走りました。
夜、土佐市内の公園の東屋で、携帯コンロで軽く焼肉をして、
通報されんじゃないかと内心ヒヤヒヤしましたが、
痛快な晩餐を楽しみました。


comment (3)


アイスクリン

2008/09/15 [09:54]

高知市内に点在する寺々をまわる。三十二番禅師峯寺が気に入りました。


小高い山の、木立の隙間から広い太平洋がのぞき見える良い立地で、
寺自体は、田舎町の、どこにでもありそうな静かで落ち着いた風の流れる寺。
石段よこに並んだお地蔵さまのうちのひとつが何となく目に止まり、
向かい合って交歓(?)していると、
掃除人のおばちゃんが、
「(その地蔵さんに)パワー感じる?」ときいてきました。
「何か、良いなと思いました」
「立ち止まるひと、多いんよ。さっきも、お爺さんが、<この地蔵さんに話し掛けられた>言うて、しばらく前に座り込んどった」


不思議です。
さしたる宗教心もなく、いわば不埒な気持ちでお遍路している僕にも、
このお地蔵さまは何かを送ってくれてるみたいです。


「頑張っとる人応援したいき、持ってって」
市内で、地元の方からお接待にあれこれ頂いて、
地方都市の商店街には珍しく「生きた」高知の商店街をそぞろ歩きして、
とっても気分よく、歩みを進めました。


よく走り、よく祈ろう。
気持ちを新たにした高知でした。



お遍路同期生

2008/09/13 [06:45]

沿道にハイビスカスが朱い南国土佐の道を軽快に走っていると、 見たことのある風体の自転車のお遍路さんがとろとろ前を走っている。


師匠!
僕より前にいらっしゃいましたか!
初日に一緒だったお遍路6周目の親爺さんが、
既に高知入りして予想外にも僕の前を走っていました。
ナイス脚力。例によって耳寄りな情報をまた頂き、
「じゃあ、また、どこかで!」
と明るく挨拶してお別れしました。


二十五番津照寺、二十六番金剛頂寺を参拝し、
次の神峯寺は、結構な山の上にある。
麓の駅のガード下に自転車を置いて、歩いて上りました。
前夜泊まった河川敷の公園でたまたま一緒になった、歩き遍路のお姉さんと山登りです。
姉さんはニュアンス的に独りで登りたそうな感じもしたけど、
愉快で素敵な方だったので、図々しくいって同行させてもらいました。
姉さんの「汗を流したくて夜の川で素っ裸になって行水した話」と
「会社が倒産する日」は、すいません心から笑わしてもらいました。


お姉さん、楽しい時間をありがとうございました!


神峯寺は急な石段の厳かな雰囲気ある静かな寺で、
気持ちよく朝の参拝をしました。
水が湧いて石段よこに落ちてきていて、汲めます。
体の毒気が抜かれ、汚れた気持ちは流されるような、
冷たくて苦い、美味しい水でした。



青年弘法大師さま

2008/09/10 [22:53]

二十二番平等寺、二十三番薬王寺の参拝を終え、阿波の国徳島県は完了しました。


特に気に入ったのは、
十番切幡寺。十二番焼山寺。二十二番平等寺、など。
いいと思った所だと、
うまく説明できませんが、合掌して目を閉じていると、
力が抜けるような、心がほぐされるような、
何とも心地よい感じがあります。
今後も僕を待ち受けている寺々の個性に期待大です。


土佐の国高知県に入り、一つ目は二十四番札所、最御崎寺。
名も示す通り、室戸岬の突端にありました。
19歳の空海はここの岩穴に籠もって修行中に、悟りを開くわけですね。
岩穴は今も大事に保存されていました。
近くには、大仏みたいに巨大な、真っ白い若き弘法大師さまの像があって、
大師さまに見守られながら、僕はパンク修理をしました。
たまたまここでパンクしたんですよね。パンク治してて何か優しい気持ちになったのは初めてです。
老猫も優しい顔をしていました。



鶴と龍

2008/09/09 [17:54]

十八番恩山寺、十九番立江寺に参拝し、南に進み那賀川を一路さかのぼる。


二十番と二十一番は那賀川を挟んで向かい合う山のなかにそれぞれ建ちます。
名前がまずイイんですよね。
鶴林寺と太龍寺。


鶴林寺は車道が何とか引いてあるんで、
自転車で意地を見せて上ります。
汗みどろの巡礼者を、
木彫りの鶴たちがユーモラスに迎えてくれました。
太龍寺は山が険しすぎて車道がありません。
道の駅「鷲の里」からロープウェイがありましたが、
もちろん、登山道を選択し歩いて上りました。
大山以来の登山です。沢の水がきれい、猿でも居そうな気配だな。
達成感と共にたどり着いた太龍寺。
廊下の天井に描かれた巨大な龍がかっこいい!
渇いた体に今こそドラゴンウォーターが欲しくなりました。
(…覚えてる(笑)?)



食べて飲んで拝んで食べて

2008/09/08 [20:38]

十二番札所焼山寺は、初の山寺。山寺はそもそも、籠もって修行するために開かれたわけなので、当然、奥地にあります。


辛い。苦しい。
しかしそれが楽しい。
つづら折りのカーブ、カーブ、上り坂、上り坂、
えげつない上りが延々と続き、しかし心が燃えます。
苦しみながら楽しむ。
楽しみながら苦しい。
愛しながら憎み、憎みながら愛す。人間はほとほと矛盾してますね。
水をガブガブ飲んで、梅干しを食べる。
ダクダク流れる汗を試しに舐めてみると、もはや梅干しの味がしました。
体はココロより、正直で単純で素直だ!


焼山寺は杉の巨木がこれでもかと林立する山の中にあり、
呑まれるような荘厳な雰囲気でした。
山門をくぐるときの、不思議な、新しいような気持ち。清新、と言ったらよいか。
とにかくそれは心地よいものでした。


さてブレーキパッドを削りながら(溶けそうだった)山を下り、
十七番井戸寺まで参拝し、徳島市内に入りました。
優しいご老人がたに出会い、初のお接待で、徳島ラーメンを食しました。
<ラーメン東大>のラーメン大600円、
和風な香りする豚骨醤油、美味しかったです。
徳島ラーメンの半分はやさしさで出来ていました。


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お遍路入門

2008/09/07 [18:02]

一番札所霊山寺から十番札所切幡寺までは、 弘法大師さまの計らいか、吉野川沿いの平野部に2キロ間隔くらいに並んで建っていて、楽に回ることが出来ます。


教えてもらった(一応の)参拝の作法を反復練習しているみたいな気分になりました。
夕方、明日に備えて、ペットボトルの水を満タンにしとこうと、
名水100選の<江川の湧水>を汲みに行ってみると、
澄みきった綺麗な泉ではあるものの湧出量が少なく、飲めない状態でした。
失意のうちに、横にあったよく整備された東屋で野良犬と遊びながら休んでいたら、
<(お遍路さん)一泊まで可>
と書かれたプラ板を発見!
怪我の功名で宿を確保しました。


四国の心は寛大だ。だってふつうの公園なんですから。
夜は、遅れてやってきた実に6周目のベテランお遍路さんに、貴重な情報と助言を頂きました。
初日とベテランの間には奇妙な師弟関係が出来上がり、
半月の美しい夜は「あぁ、そうなんですか!」の連発のうちに更けていきました。



The 5th Leg  また旅がはじまる

2008/09/06 [15:05]

岡山県玉野市の宇野港からフェリーに乗り、香川県高松市に渡る。 長かった第4レグもここで終わり、旅は新章に突入します。


第5レグは、
<四国八十八ヵ所霊場巡りの旅>
自転車で、弘法大師ゆかりの霊場を順次回っていきます。
まずは「発心の道場」徳島県からスタート。
高知、愛媛、香川と、時計回りに走ります。
鳴門市の一番札所霊山寺では、
これから長い旅に出る真新し白装束がたくさん見えました。


ところで、
このところ、ブログの記事ひとつひとつがどんどん長くなってきているので、
ブログの構築が、若干旅そのものを圧迫?するようになってるときがありました。
なので第5レグは、
北海道時代のようなシンプルな記述でいこうと思います。


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山陽道

2008/09/04 [08:14]

再訪した広島で栗原のホームランボールを掴み、さらに東へ東へとひた走る。


呉、竹原、三原、尾道、福山。
名前だけは聞いたことがある広島県の瀬戸内海沿いの都市をつなぎ、
岡山県に突入しました。


倉敷の美観地区を訪れた時は早朝で、
白壁の旧家で庭木に水をやるお婆さんがいて、
柳の道をおばちゃんと犬が散歩していて、
夏休み明けの中高生が眠そうにチャリを漕いでいて、
観光地でありながら、人々の当たり前の日常がありました。
とっても普通な、人々の顔と顔。町の空気。
ふと、何かうっとりしてしまう。。。
旅人の目線は、
対象にとってどんな意味を持つのでしょうか。


 低目から街を見上げて首かしぐ柳の下に犬の哲学


岡山の後楽園は、思いの外良かったです。
広い芝が青い。
流れる水が清澄。
気に入りました。


写真は、しかし平和公園の噴水。
この写真をUPしたかったのになかなか機会がなかったもので。


comment (2)


橋より団子

2008/09/02 [17:38]

岩国と言えば錦帯橋。良かったです。


さて、岩国駅前のネットカフェを本日の宿と決め、
近くの公園で、深夜パックで料金が安くなる夜9時をぼんやり待っておりました。
すると真向かいの居酒屋「風来坊」の、
威勢のいい藤原組長のような御主人が、話し掛けてきてくれ、
話もそこそこに、
「来い。」
とおっしゃる。
殴られるのかと思いながら付いていくと、
カウンターに座らされ、
お客も多く暇なわけでもないのに、
たくさんご馳走を出して頂きました!(ビール2杯も!)
ありがとうございました!


ふたりの優しいお姉さん(!)が相手をしてくれながら、
長い旅に感心してくれつつ、
次から次へとおいしい料理を出してくれる!
各地で、本当にありがたいことに、
色んな人に差し入れやご馳走をしてもらってきましたが、
お店でこういう形でお世話になるのは、初めてで、嬉しかったです。
心と胃袋が、突然のご馳走に飛び上がって喜んでいました。


岩国駅前徒歩5分、公園の前の居酒屋その名も「風来坊」。
おいしい料理と篤い篤い人情の店。
絶対にあなたの期待を裏切りません。
岩国に来たときは、
いや山口県に行くときは、
いやだいたい西の方に行くときは、
岩国に立ち寄って「風来坊」でぜひ一杯やってください。
僕自身も勿論、
いつか、まっとうなお客としてここに帰ってこようと思います。
ああ、
就職したいな(笑)。


写真はこれでもまだ一部。




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八十四の瞳

2008/09/01 [20:34]

1周約100キロの周防大島(屋代島)をまわる。


斜面にみかん畑が出てきました。
南の海は伊予灘。愛媛県ももうすぐそこですからね。
みかんトロッコが懐かしい。
島の南東には、陸繋島ではありませんが、沖家室島(おきかむろじま)というちっちゃな島がすぐそこにあって、
名前に惹かれて橋を渡ってみました。


集落はひとつ、人口120人のうちほとんどは老人という島です。
ある商店で、旦那に先立たれてひとりで店を守る、60過ぎくらいと見えるおばさんと話していたら、
電話が掛かってきて、
どこぞの爺さんがぽっくり逝ったらしい。とのこと。
ですがおばさんはケロッとしてました。
村の老人同士、「次会うときはどっちかの葬式やったりしてなあ」
なんて言って笑い合って別れ、
実際そのとおりになったりするらしいです。
僕は素敵だと思いました。
死とか老いとかをそんな風に笑いに包めるということが。
あ、「きみまろ」の笑いもこんなじゃなかったでしょうか。


さて、あれこれ差し入れも頂いて、
さいごに記念写真を撮ろうとすると、
おばさんは急いで鏡の前に行って、パタパタやってました。
「ちっとも変わらんのにね」
「いや若くなりましたよ!…ところで、お母さん、おいくつですか?」
「八十四」

仰天しました。絶対に見えない。
化粧する84歳に初めて会いました。
この気持ちがきっと若さを保つのでしょうね。
肌も背筋も何より話しぶりが60ですよ。
ハケン社員の実情から日本を憂えていましたからね。


写真は、また画質が悪いですが、沖家室郵便局。
ちなみに、周防大島側の少し離れたところに、「地家室」という集落があり、
400年前に、そこから人が移り住んで開拓したのがこの島のようです。
ドラマを感じます。


「また、いつか、来ます。」
「死んどったらごめんなさいね(笑)。」


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サイクリスト川柳

2008/08/31 [16:33]

山口市では、オマール推薦の瑠璃光寺に参拝し、国宝、五重の塔を仰ぎました。


「凍れる音楽」と詩的に表現されることもある五重の塔。
メロディアスな塔の佇まいを、ベンチに座って心地よく観ていると、
うつらうつら…まぶたが…おもいな…
すいません国宝を前に昼寝してしまいました!
結構しっかり寝ました!


 瑠璃光寺なつのおわりの子守唄


とか言ってみたりして。。。
柳井では、佐川醤油店の醤油蔵が印象的でした。
見学可能な蔵は、当たり前だが醤油の香ばしい匂いがいっぱいにして、いい感じ。
試食コーナーがあって、
醤油を手のひらや小皿に何滴か垂らして、頂けるんですが、
甘くて美味しかったです。
汗で塩分を失っていた僕に限っては、ほとんど「試飲」でしたね。


 旅に出る樽の醤油も待ち受ける


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オマをたずねて約三千里

2008/08/30 [08:38]

「喋っている内容より、声が、その人の人物をよく表す」といつも思っています。


どんな稚拙なことを歌っていても、
歌が人に受け入れられるのは、
このこととおそらく関係していて
歌手はズルい!と活字表現者の端くれの端くれの僕は(このブログのことね)、妬みます。


さて、活字、と言いましたが、
それに対する肉筆の文字、つまり筆跡というのも、
声のように、人物を表し得る。
字を見れば、少なくとも書いたのが男か女か、ほぼ分かりますよね。
(不思議と、歳を重ねると分かりにくくなってゆく)
意味を超える意味を筆跡は示してくれます。
人と会って、その人をもっと知りたいと思うと、
だから僕はその人の字が見たくなります。


中学2年のとき親しかった金田さんの字はすごくきれいで、今でもよく憶えています。
僕の初恋は、生身の金田さんではなく彼女のノートが相手でした。
しかし金田さんを超える強烈な印象を与える字を書く人に、
僕は大学のヨット部で出会うことになった。
彼の名はオマール・ガイ。


オマールの字は、個性的で、つまり下手なのだが、
胸の中で熱い心臓のどくどく鳴ってる感じが伝わる、
素晴らしい、類い稀な字なのだ。
僕らの主催するヨットの大会の表彰状の書き手を、
「なぜオマール」の周囲の疑問符を無視して、
あえてオマールに頼んだのをおぼえてます。
大学4年間は、
僕の、字を通しての彼に対する第一印象の正しさを、
証明する時間だった。
オマールは熱い心と優しい心をハイレベルにあわせ持つ、
正真正銘ナイス・ガイだったのだ。
あの夜やあの夜の出来事や、それから、僕を心底救ってくれた彼の言葉が忘れられません。


さて、前置きが長くなりましたが、
…言いたいことはもう言いましたが
現在、山口県防府市で銀行員をしているオマールを訪ねました。
恰幅がよくなりつまり腹が出て、スーツが似合ってきたオマールが、
雨のなか向こうからやってくる。
笑いが湧いて溢れてこぼれました。


オマール家は非常に忙しいタイミングで僕を迎えることになったのだけど、
それでオマールはともかく、
奥様のゆきちゃんには申し訳ない気がしていたのだけど
会ったら忘れてました。
母になったゆきちゃんは、前より何かたくましくなっていて、素敵でした。
僕に必要以上に気を遣わないでいてくれるあたり、最高でした。
ありがとう、オマール・ゆきちゃん。
この二人に育てられて大人になるけんちゃんが
将来ヨット部に欲しいです。
防府のアパートで、
ひょっとしたら当事者には見えないかもしれない、
虹を見ました。


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こんなことがあっていいのか

2008/08/28 [23:46]

えー、広島に来ました。


下関から海峡を渡らずに東に進み、山口県を横断。
防府、山口、光、周防大島、岩国さらには大竹を経て、広島に戻ってきました。
この間の行程にも、書きたいことが沢山あって、
ほとんど書き上げたものも携帯に準備されてるんですが、
今日は、まさしく今日(28日)の出来事を書かねばならない、不測の事態が発生しました。
ちょっと順番が前後するかと思います。


ふたたび訪れた広島市民球場。
1勝1敗で迎えた対ヤクルト第3戦。
試合は、2週間前のあの日と同様、
広島の頼れるエース大竹が好投し、
ヤクルトダグラスとの我慢比べの投げ合いに。
しかし2対2の6回裏先頭打者、広島の主砲栗原の一振りが決勝点となりました。
快音を響かせ雨を切り裂いて飛んだものすごいライナーは、
そのままレフト最上段で戦況を見守る僕の左手に吸い込まれました。





栗原のホームランを捕ってしまいました!!!
以上!


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関門海峡

2008/08/26 [23:28]

とうとう本州の果ての街、下関にやってきました。


青森に居たのはいつだったっけ?
あの日はねぶた祭りが佳境でした。
ちょうど良いときに来た。とも思ったし、
祭りの熱狂は見ているだけでもいくらかは味わえた。ねぶた(山車)の迫力はすごかった。
でも寂しくて、人々が羨ましくて仕方なかった。
去年の八月初旬、去年の、ねぶた祭りです。
「他人が羨ましいときその人はいま未熟である」
という言葉がありますが、(無いけど)
そういう意味では僕は随分たくましくなりました。正直。


さて、今目の前にあるのは関門海峡。狭い海峡です。
手の届きそうな対岸に、門司の街並みが見え、
右に左に往来する船舶も、ちょっと気を抜けばぶつかってしまいそうな密度です。
意外ときれいな水を覗き込んでみると、
潮流が複雑に、うねうねぐるぐる流れているのが分かる。
平家が散った壇ノ浦の海はこうも狭い海峡だったのですね。
海の底の都はさぞ慌ただしいことでしょう。
そういえば!
倶利伽羅峠から木曽に回り、木曽義仲の旗揚げの地にも行った。大津のお墓にも行っているし、
珠洲神社や、例の義経終焉の地、平泉の中尊寺の参拝は、自分の中で特別な体験だった。
さらには平維盛関連の霊所のこともある。
一ノ谷、屋島、厳島神社、と瀬戸内の源平合戦がらみの場所を順々に訪ねて、
さいごに壇ノ浦の潮流を見る。
という、ひそかな企画があったんですが、忘れてました。
隠岐や広島に吸い寄せられたからですね、きっと。
最挟部1キロほどの海峡を、
クルマは橋で渡り、人と自転車は歩いて海底トンネルで行き来します。
トンネル入り口でカメラのシャッターを押してもらったご夫婦は、
このトンネルを日々のウォーキングのルートに使っておられるそう。(激励ありがとうございました!)
下関と門司、さらには隣接する小倉。
海峡を挟んで向かい合う、この個性的な、旅情たっぷりの
いわば一つの都市圏も、
ここで暮らす人には至って普通な景色なわけです。
僕はこの景色を飽くことなく眺めていて、
トルコのイスタンブールを思い出しました。
ま、行ったことないんですが。


さて、この2日間大いに僕を笑わせ、楽しませてくれたOMちゃんとも、ここ下関でお別れです。
築100年の旧英国領事館の豪奢な邸宅で、
やたらデスクの引き出しを開けて空を確認していたお茶目さん。
人の家で出された料理を頑張って残さず食べているうちに、
キライな食べ物を次々克服してきたイイ奴。
OMちゃんの先の旅路に幸あれ。


comment (6)


毘沙と美女

2008/08/25 [12:24]

本州最西端「毘沙の鼻(びしゃのはな)」へ向かう! 道がなくて行きにくいというもっぱらの噂だったので、 パスしようかとも思っていたけど、 天気もいいし、何となく足が向きました。


R191から西に逸れ、地図を見ながらあとは勘を頼りに岬を目指します。
人影が無い代わりに、可愛い白サギがたくさん居る、のどかな田園地帯を抜けて、
道はどこまでも狭く、また勾配はどこまでもきつくなっていきます。
たまにバイクが颯爽と僕らを抜かしていき、
目的(勿論、毘沙の鼻)を遂げ、引き返してくる。バイクはやい!
そう、ところで実は、たまたま逢ったあるサイクリストと共に岬を目指していました。
振り返れば仲間がいるこのよろこび…!
これまでの1万キロのうちほとんどを、勿論一人で走っているわけですが、
一瞬でもこうして誰かと一列になって走れると、新鮮で楽しいです。


彼女OMちゃんは珍しい日本一周女性サイクリストで、
あまり詳しく書いたら当人に怒られそうなんで書きませんが、
キャンプ場が無かったら、民家にいきなり行って庭先を借りて泊まらせてもらう、という気骨ある人。
前日に角島(つのじま)に渡る橋のたもとで出くわして以来、
行動を共にさせてもらいました。


さて「毘沙の鼻」。
さいごは自転車を降りて押しながら、とうとうたどり着いたそこは、
絶景でした。
辺鄙な場所ゆえ、前日の角島灯台が観光客いっぱいだったのと対照的に、我々しか居ないし、
位置が高いので波音も聞こえなくて至って静か。
蝉の声だけが岩にしみいって(!)ました。
太陽が海面に反射してキラキラ…
右手の奥には角島が薄ぼんやりと浮かび、
左手の奥にはこれから向かう下関の市街地が、これまたぼんやりとある。
通り過ぎた情景と、向こうに待っているこれからの情景。
きのうとあしたに挟まれた今日という日のライブ感。
ひとしきり風に吹かれてから、毘沙の鼻を後にしました。
「さ、そろそろいきますか…」
「ハイ!」
OMちゃんは返事がいい。思わず笑ってしまいます。



ふたつの陸繋島

2008/08/22 [19:09]

棚田棚田と言っていますが、陸繋島を忘れたわけではありません。


陸繋島。りくけいとう。陸につながれた島。
海岸近くに島があると、
例えば、海峡部分でぶつかる両側からの波の影響で、
長い年月の間に砂が堆積して島が陸地に結ばれてしまう。
そんな地形のことです。


有名な、函館や江ノ島、潮岬もそれぞれ素敵でしたが、
長門市の市街地から北西に20キロ、油谷島(ゆやじま)をこの度訪れ、
ここ来て良かった!と心底思いました。
周囲6キロほどのわりと大きな島が、最細部分100メートルくらいの砂州で結ばれ、そこは小集落「大浦」になっています。
典型的な陸繋島です。
きれいな碧いろの海と、平地がほとんど無いなか斜面に拓かれた棚田の数々、
油谷島一周は、さんさんと照りつける太陽の下、
海とイネの匂いに包まれて、とても幸せなひとときでした。


「べこ(牛)おるよ。」
お婆ちゃんに案内されて行った先には、
母牛のお乳を懸命に飲む生まれたばかりの子牛の姿があり、
海を眺めながらの、お母さんののぼーっとした顔がまたのどかで良かったです。


さて、自身が陸繋島である油谷島には、
先っぽに、もう一つ小さな陸繋島が付いていました。
ダブルははじめての遭遇、かなり興奮しました。
写真2枚目はその小さな陸繋島、俵島(たわらじま)です。
函館とは対極にあるような、完全に「手付かず」の陸繋島は、
息を呑む美しさで、しばらく波打ち際を離れることが出来ませんでした。。。
風と波が結構あって、渡るのは断念しましたが、
干潮時にはそれでも十分渡れるのだそうです。


油谷島と俵島。
地球と月の麗しき関係のような、陸繋島コラボレーション!
日本縦断陸繋島ランキングの、かなり上位に食い込んできそうであります。




汗と涙と豆乳と

2008/08/19 [20:43]

体が欲しているのか、豆乳がやたら美味しいです。


休憩やトイレのためコンビニに行って、
何も買わずに店を出るのが嫌なので、
買うものが思いつかなかったら、とりあえず豆乳を買います。
特に暑い日は、日に何度もコンビニに行って涼むことになるわけで、
いつの間にかそういうパターンが出来上がっていました。


コーヒー味、バナナ味、抹茶味、紅茶味、きな粉味、そしてプレーンと、
店によって品揃えは様々ですが、
まあ大体の店でプレーンは置いていますね。
北海道から南下してくるにあたって、最初コーヒー味が好きだったんですが、
きな粉味を知ってからは、これにはまりました。
しかし行き着いたのはプレーン。
結局これがいちばんうまいんじゃないかと。
最近では、スーパーで売ってる1リットルのでかパックの豆乳にまで手を出して、
ゴクゴク喉をならして飲んでいます。
うまい…。
冷たい豆乳があれば、もはやビールは要らない。



いや、嘘、要るな。ビールも要る。言いすぎた。


写真は「本日の棚田」、山口県長門市は東後畑地区の棚田。
大げさでなく、感動しました。
うまく表現できなくて、豆乳の話してしまいましたが…。


comment (2)


萩 麗しき城下町

2008/08/18 [21:15]

アゲインスト。風と友達になれない一日でした。


荷物の横幅もあって、風の抵抗はかなりあるので、
タイヤ引きながら走るトレーニングがありますよね。あの感じです。
やったことないけど。


萩は江戸時代毛利氏の城下町。
毛利は関ケ原で西軍に与して敗れ、大幅減封で広島からこちらに追いやられてきたわけですね。
その雪辱を250年後、長州の尊王の志士たちがはらして明治維新を起こしたのだ。とも言われます。


伊藤博文、高杉晋作、木戸孝允、山県有朋、久坂玄瑞、前原一誠、等々(他にも維新の英雄や明治期の大臣がズラリ)
みんな萩の人です。
幕末、萩で伊藤らを指導したのが吉田松陰でした。
松陰神社は、彼をまつった神社。
松陰先生の教えにあやかろうと、合格祈願の絵馬がいっぱいで、
境内では、塾?なのか、ある家屋で子供たちがカリカリ勉強してて、風流でした。


城下町の、掘割りっていうのかな、碁盤の目の街並みは、
今まで訪れたどの城下町より、素晴らしい保存ぶりでした。
江戸時代の土塀や石垣がこんなに残っているとは…。
シャッターを切り通しでした。
地元のおばちゃん「はあ、そんなにイイもんですか」
「こんな街どこにもありません!」
どこでもそうなんですが、住んでる人にはフツウなんですよね。面白いです。



石見の国

2008/08/17 [21:01]

広島からだいたいまっすぐ北へ。R261石見街道を走って、島根県に再び入り、江津で久しぶりに日本海に見えました。


途中、北広島町旧十王村で、
「よみがえりの水」と名付けられた湧き水を発見!
ロールプレイングゲームみたいに発見!
つめたくておいしい!
じゃんじゃか湧きに湧いているここの水は、
地域の人たちによって、汲み場所がきっちり整理されてて、ありがたい限りです。
傍らにはなんと水風呂が小屋の中にこしらえてありました。
各地で水を汲んできたけど、湧き水風呂ははじめてで、胸が踊りました。
つめたくてヤバい!
30秒が限界だ。5分も入ると本当に危ないでしょう。
気持ちいいのか何なのか…何ともいいがたい風呂でしたが、
すっきりしました。
旧十王村の皆さん、ありがとう。


江津からはR9、R191で、普通に海沿いを快走しました。
浜田、益田を経て、今は、ぎりぎり山口県に入り、萩市田万川です。
走らざる者サイクリストにあらず。
暑さに負けず走ります。


写真は水風呂と、
島根県益田市中垣内町の棚田。
平安時代から室町時代にかけて拓かれたらしいです。
この急斜面に…。見事だ。



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原爆ドーム

2008/08/15 [23:10]

8月15日。63年目の終戦記念日。6日から滞在していた広島市をようやく離れることに決め、午前中は平和記念公園で過ごしました。


取り巻く人がいつもより多いことを気にも留めず
原爆ドームは今日も建っている。
不謹慎かもしれないが、それにしても美しいかたちだ…。
朝でも昼でも夜でも、そして360度どこから見てもほれぼれするほど美しいので、
時々立ち止まりながらぐるぐると回るのが僕の日課になってしまった。
また不謹慎かもしれないが、「棚田」の美しさに通じるものがある気がする。
どちらも、美しいものを創ろうとして出来た造形ではない、という共通点を考えてみたけど、さぁどうでしょう。


ところで、原爆ドームは最初から原爆ドームだったわけでは勿論ない。
1915年竣工の広島県物産陳列館(のち産業奨励館と改名)。
地上三階地下一階の、この豪華な建築物が、
廃墟となってこのような形で永久に保存されることになるとは、
設計したチェコ人ヤン・レツルも予想だにしなかったろう。
ここでは物産展や品評会のようなものが常に開かれていて、
カール・ユーハイムによって、バームクーヘンが日本で最初に売られた場所でもあるらしい。
きっと広島一のおしゃれスポットだったのだろう。
その後、催しの幅を広げ、戦争直前は美術展が盛んに開かれていたそうだ。


1945年の8月6日、しかし広島は壊滅した。
産業奨励館から東に200Mの島病院(再建されて今もある!)の上空で原爆が炸裂し、
館内の従業員らは全員即死だったと推定される。
推定、というのは、
川向かいの、今は平和記念公園になっているエリアは中島町という繁華街だったのだが、町そのものが無くなり、地下室にいた1人を除き全員死亡、
さらに少し離れた本川国民学校でも児童教職員全員死亡、というから、
何人いたかも全く分からないが産業奨励館の人も当然即死だったろう。ということだ。
かくしておしゃれスポットは、
何も知らずあっという間に死んだ人の魂の眠る、廃墟となった。


保存か取り壊しか。
広島市は取り壊し派で、市民の意見も分かれた。
そんな中で、1960年、ひとりの女子高生が原爆が原因とみられる白血病で死んだ。
日記にあった言葉が原爆ドームの運命を決めた。
「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐ろしい原爆の惨禍を、後世に訴えかけてくれるだろう」


原爆ドームは今日も
無残な姿で、風雨にさらされ、人目にさらされ、フラッシュを浴びつづけ、
歴史の証人として、健気に建ち尽くしている。
死者は、我々生者のようにものを考えることも話すこともできない。
あの一発で、極限にむごく死んだ人々の、
怒りや恨みや悲しみや、その他全ての気持ちを、
原爆ドームは託され、そして静かに吠えているのだ。


オレノ声ガ
聞コエルカ
アイツトアイツトアイツトアイツトアイツトアイツノ声ガ
聞コエルカ



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ラストイヤー広島市民球場

2008/08/15 [07:48]

広島市民球場は、今シーズン限りで、役目を終え、取り壊される予定です。滑り込みセーフで三連戦を観戦してきました。


対中日ドラゴンズ、一勝一敗で迎えた第三戦。
広島先発はエース大竹。
大竹の美しいピッチングフォームは見ているだけで気持ちいい…。
序盤からその大竹の快投が続く。
糸を引くようなストレートがズバズバ決まり、いつもの四球も今日は出さない。
一度T・ウッズにノースリーになったが、真ん中ストレートを狙い打ちしてきたウッズのライナーは、
前日のヒーロー、サードシーボルの素晴らしい反応によってグラブに収まった。
第一戦から、広島守備陣はファインプレイの連発だった。
サードシーボルは、真面目な性格の、滅多に打たない助っ人だが、守備は実にいい。
ショート小窪は、中日井端に比べると送球は弱いが、堅実で玉際に強い。
そしてセカンド東出。
セカンドに打球が飛ぶと最も安心できる。こんな東出を数年前誰が想像したろう。守備の安定が打席での余裕を呼び、相変わらず盗塁は下手だが、チャンスメーカーの働きを十分に果たしている。彼の才能に惚れ込んで使い続けた三村元監督も、胸を撫で下ろしているに違いない。


守備と走塁のミスを再三犯して流れを失ったのは中日の方だった。
広島は、守備のファインプレイの度にチームが勢い付いているのが伝わってくる。
第一戦こそ李の2発に敗れたが、流れは広島だった。
先週阪神を3タテしたばかりだが、この中日戦も三連勝でもおかしくなかった。
チームは最高の状態だ。
今年はいけるかもしれない。ラストイヤー広島市民球場のスタンドを埋めた2万6千人の期待は膨らむ。


大竹は中日打線を完全に押さえ込んで3安打1四球の完封勝利。
序盤は中日先発川井との息つまる投手戦だったが、赤松の2ラン、そして再び赤松のタイムリー3ベースで中日を引き離すと、あとはスイスイ投げた。
九回にはストレートが152キロ出た。


ヒーローインタビューの大竹。
「ご自身振り返って、どこが良かったと思いますか?
「守備。…味方の」
ヒーローインタビューの赤松。
「本当に沢山のお客さんが詰め掛けましたが…?」
「こんなに人がいてるんやと思いました」


本音はおもしろいです。




鋼の精神養成所

2008/08/13 [09:01]

呉から、これぞ瀬戸内海、といった体の狭い海峡を2つ、橋で渡って、江田島に上陸しました。


旧帝国海軍の本拠地が呉、海を挟んで対岸に江田島はあります。
明治から昭和にかけて、ここには海軍兵学校があり、多くの海軍将校がここで学び鍛えられ戦地に巣立っていきました。
現在は海上自衛隊術科学校、幹部候補生学校になっており、見学が可能です。
資料室には神風特攻隊の遺書がずらりと並んでいました。
二十歳そこそこの若者が遺書をしたためるって、どういうことですか…?
国のために家族のために死ににいく、鋼の精神。
部下にそれを命令する、鋼の精神。
美しくも恐ろしい、切なくも尊い、ここは大和魂養成所でした。


柔軟な思考、といいますが、柔軟のナンは軟弱のナンであります。
国を守る人には、
堅物で頑固で強硬で、それ故に強くあってほしいと思います。


写真は、自衛隊限定ドリンク(意味不明)の「元気バッチリ」と講堂。



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10000リットルの汗

2008/08/12 [09:02]

広島県呉市天応。R31を走り、呉の市街地に入る手前の、何んでもない路上で、メモリアルなその瞬間が訪れました。


去年の7月1日に北海道宗谷岬を出発して以来の走行距離が、
ついに10000kmを突破しました。
おめでとう!
ありがとう!
本当に何でもない路上で自転車を止め、嬉々として写真を撮りました。
不審がる周囲の視線などどうでもいいぜ。
だって10000kmなんだから!


呉の大和ミュージアムと海上自衛隊呉資料館は、まる1日過ごせる盛りだくさんのスポット。
戦艦大和の模型や、本物の零戦や回天が展示されています。
最近引退した潜水艦「あさしお」の内部に入れるんですが、
船というより兵器でした。
僕は自転車に乗っていたいです。



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ナガサキの方角

2008/08/09 [23:06]

広島に留まっています。いま広島では、平和記念資料館の地下のホールで被爆体験証言会が毎日開かれていて、それに連日出席しています。


平和公園のベンチなんかで佇んでいるお爺ちゃんに話を聞いてみたりもします。
ただ、そういうときは、気が付いたら広島カープの初優勝の話にいつの間にか話題が変わっていて、
広島カープファンの僕には、この話は楽しくてたまらんので、
戦争の話はあまり聞けていません。


さて今日8月9日は長崎の「原爆の日」でしたね。
長崎でも平和式典が厳かに開かれたことでしょう。
広島から、西に祈りを捧げます。
長崎の日に合わせて、今日、キャンドルを灯して平和をねがうイベントがあったので参加させてもらいました。
かつて平和公園を訪れたアメリカの音楽家レナード・バーンスタイン氏の言葉です。
「言葉は十分だ。行動だけが十分たりえない。」


平和を求めるならそのために何をする?
何ができる?
他力本願でいきますか?
音楽家の刺すような言葉です。


今日の僕には、
キャンドルナイトを企画した広島の若者たちに協力することしかできませんでしたが…、
(いや別にこういったことが「行動」の本質だと断言しているわけでは無いが)
少なくとも、広島の若者たちの熱い気持ちの片鱗を見ました。


6日は、平和公園内あちこちでこうした自作のミニイベントが開かれていて、
内容はともかく、自分たちのが終わった瞬間に、狂喜乱舞して飲み屋に繰り出していく彼ら(一部!)の揃いのTシャツに何だか失望していただけに、
今日まで残ってて良かったな。と少し思いました。
バカな結論ですいませんが、
平和をねがうときTシャツは揃えてはいけません。



ヒロシマ8・6

2008/08/07 [00:49]

広島に原爆が投下されて63年。 平和公園で朝8時から行われた平和記念式典に参列してきました。


ただ黙って、死んだ人々に鎮魂の黙祷を捧げること。
僕の仕事はそれだけだったので、
きっちりやってきました。
式典は一時間ほどですぐに終わり、その後は、
公園内の木陰で、青空教室で被爆体験を話しておられる語りべの方々のお話を、子供たちに混じって聞きました。
63年まえの今日、ここであった出来事。
この青空教室も、語りべの方の人数じたいも、年々減ってきているそうです。
当然、いずれ被爆者はこの世からひとりもいなくなります。(そうでなければいけない)
聞けるうちに聞けて良かった。肉声と書物では、伝えられるものの質に決定的な差異があるようです。


続いては、国際会議場であった演奏会「ヒロシマのココロを世界に2008」に出席して、
音楽で平和の希求を表現する人々のココロを感じてきました。
平和記念資料館は入館料50円。
今まで訪れたあらゆるミュージアム中で、最安でした。
展示の内容は書き切れません。
行って、見てください。行ったことのない人をぜひ伴って、何度でも行ってください。
資料館を出るともう日が暮れていて、元安川の灯篭流しが始まっていました。
63年まえは死体であふれかえったという元安川、流れる灯篭を飽きず眺めて平和について考えました。
平和について考えながら、
肩を大胆に露出したガールの白い肌を目で追っていました。



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旅は続く

2008/08/05 [22:35]

写真に多くを語ってもらうことにして、この数日の歩みを一気に振り返ろう。



出雲大社には、サイクリストM君と一緒に向かったのだが、彼の脚力に付いていけず、はぐれてしまった。
でも縁あらばまた会えるはず。出雲の神さまがきっと取り計らってくれるさ。



「天然の冷蔵庫」八雲風穴。
山の中、岩の隙間から冷風が吹く。付近一帯がその風で既に涼しい。自然のやることは、バラエティに富み、そして気が利いているから好きだ。



日本百名瀑の一つ、八重の滝。
「滝」は夏の季語って知ってましたか?
炎天に涼を求めて滝の裏
サイクリストえこにんさんにお会いしました。



広島県三次市君田。夏の盛りのひまわり畑。
ひまわりの黄色が似合う君であれ



広島県北広島市吉田。戦国時代毛利氏の本拠地。三矢の訓。結束した連中が生き残ってきた、人間の歴史なり。


省筆もたまにはいいか旅ブログ







『隠岐の風』 その13

2008/08/03 [11:00]

隠岐の水を飲み、隠岐の魚を食べ、隠岐の人の優しさに触れ、そして隠岐の風を吸っているうちに、僕の体はにわかに隠岐のいろに染まっていきました。


流刑の島、というイメージしかなかった隠岐。
日本海に浮かぶ1つの島だと思っていた隠岐。
白状すると壱岐とごっちゃになっていた隠岐。
西郷港に到着したその日、
物価の高さと、人々の、僕を見る驚きと警戒の少し冷たい目に、
4、5日でぴゃーっと休まず走ってさっさと本土に戻ろう。
という気でいました。
ところが実際はこのとおりに、
いつまで続くんだ隠岐の風編!という声も聞こえてきそうな長居をすることになりました。
本当に幸せな時間だった…!


ところで、隠岐では、
アメリカ産のネーブルオレンジが一個150円、
高知産のニラが一束200円します。
世界一物価の高い町は東京で、二位は大阪である。
という言説は誤りだと知りました。
島で生産されて本土で売られる商品には、その逆の力が働きます。
輸送にかかるコストは、島民の生活を圧迫し、産業の成長を妨げます。(その威力は凄いです。)
離島の苦しさは、そのまま島国として日本がはらむ経済的危うさを示してもいます。
本土の過疎地では、僕が働いていた福井のあの大工場のように、どこでも、
企業をどんどん誘致して、外人もどんどん受け入れて、新しい町の発展の型を模索しています。
しかし離島では、その策は難しい。
島の人は、穏やかで明るいですが、
もう何十年も前から島の将来に不安を感じておられます。


しかし光明もあります。
海士町では、海産物の最新の冷凍加工技術を持つ工場が最近建ち、(町長自らが社長!)
新しい雇用も創出し、町の人口が昨年、転出を転入が上回るという「革命」を起こしたそうで、
いや本当に頑張ってほしい。
と心から思いました。


離島の現実はまことに厳しい。
自然がステキ人がステキだけでは不十分な気がしたので、
偉そうなことを書いてしまいました。。。


さて、忘れてはいけない、僕は沖縄を目指しています。
幸せに隠岐のいろに染まったこの体ですが、
そろそろ駒を進めなくてはなりません。


知夫里島の来居港から、本土の境港まで直通のフェリーには乗らず、
あえて、倍ぐらい時間がかかる、別府、菱浦、西郷を回ってから本土に向かうフェリー「くにが」に乗りました。
島前の青い内海を軽やかにはしる「くにが」のデッキから、
思い出深いあの岬この岬、あの港この港が両手に次々と見え、
やがて外海へ抜け、沖にある大きな島、島後に舳先が向く…
心のなかで、懐かしいあのメロディが聞こえてきました。
隠岐在住のシンガーソングライター広江政仁さんの名曲、
島後では夕方5時になると島内どこにいてもチャイム代わりに流れてくる、
隠岐を代表する、いや隠岐の心そのものと言ってもいいかもしれない唄。
『隠岐の風』です。


 ♪夢をのせてふく風 想い出運んで
  懐かしい便りは ふる里のかおり
  かすんで見える 遠い想い出
  風に吹かれて届け 隠岐の島の風


 ♪言葉は何もいらない こころの隅に
  想い出つづれば ふる里のかおり
つまびくギターの かわいたメロディ
風に吹かれて届け 隠岐の島の風


 ♪かすんで見える 遠い想い出
風に吹かれて届け 隠岐の島の風
  風に吹かれて届け 隠岐の島の風
  風に 吹かれて届け 隠岐の島の風


島影が遠ざかり、霧にかすんで見えなくなる頃、
トビウオが一匹、
隠岐に向かって強く飛行していくのを見ました。


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隠岐の風 その12

2008/08/01 [22:08]

島前内航船「どうぜん」に乗って最後の島、知夫里(ちぶり)島に向かいました。


人口600人あまりの、
隠岐諸島の島の中でももっとも素朴なこの知夫里島の
知る人ぞ知る静かな名物が、
「牛の海泳ぎ」です。
海岸近くで放牧されている牛が、
離れ小島に生えた草を食べるために、狭い海峡を泳いで渡るらしい。


するとうまい具合に、
「今日14時40分にあるよ。」
とのこと。
待ちました。


どこからか観光バンが乗り付け、
みんなで見守る「牛の海泳ぎ」は、
しかし、現在のものは観光用のもので
感動的とは言いづらかったですが、
あごを上げてとろとろ泳ぐ牛は愛らしかったです。


さて、牛の渡るその離れ小島、渡津島の浜辺で、
3人組のおじさん釣り客と、ひとりのバイク旅のおじさんに、会いました。
そのバイクのおじさんは若い頃、自転車日本一周を経験していて、
定年退職後の現在は「全国の郵便局すべてを回る旅」という規格外のチャレンジをしている方でした。
なんとアホなことを一生懸命やっておられるのか!
これだけでとても共鳴しましたが、
さらに!この方は枚方の人でなおかつ最寄り駅も同じ!
離島の、先の先の先で出会ったのは、
近所のおじさんでした。


郵便局は全国に3万軒あるらしいですが、3分の2はもう行ったそうです。
瀬戸内海の無数の島々を一個一個巡る話はアホ過ぎて感動しました。
ああ素晴らしきかな枚方人!


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隠岐の風 その11

2008/07/31 [21:36]

「そうですか、自転車でー!大変ですなあ。担任の先生が来られとるのかとおもっとりましたよ」


怪しまれてもいけないので、子供たちの家族や港にいた地元の方々に「アイサツまわり」しつつ、
今日もりゅうすけ、ほのかと、さらにコウヘイも途中で現れ、泳いで遊びました。
ここの子供たちの過半数ですね。


珍崎の対岸にある、波止というところに僕は泊まっていて、
(西ノ島にキャンプ場は無く、どうしようかと観光案内所に行って聞くと、島内どこでもテント張っていいですよ。とのこと。何て大らかな島の文化!)
自転車で約1時間、ここから珍崎に「通勤」です。
本当にこんな島の学校の先生になるのも悪くないなあ…。
なんて思ったり思わなかったりしました。


気の弱いワルガキタイプのりゅうすけ、
可憐で恥ずかしがりだけどりゅうすけには負けないで言い返せる、ほのか、
そしてコウヘイは、我が道を行く気分屋で、ほのかにホの字でした。
みんなで一緒に大きくなっていく、彼らを
全校生徒千人を超える、住宅地のマンモス学校でずっと過ごしてきた僕は、
羨ましく思いました。


島に高校はない。
島後にいるほのかの姉のように、彼らも、早くから、島を出ることになる可能性が高い。
ここの未来を背負っていってほしいけど、
離島の生活は、本土の田舎町より、さらに格段に厳しいことを、
たった二週間の生活ですがまざまざと僕もを痛感しています。


何も答えを出せないけれど、珍崎と、愛ある子供たちに、幸あれ。


写真は、りゅうすけと、波止から見た珍崎方面、沈む夕日。



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