BLOG一覧から検索する

逃げる兎のケイデンス

2008/12/27 [22:11]

最終第6レグも終盤に差し掛かってきて、いよいよ旅は大詰めです。


最後は原点に立ち返って、がんがん走ろう!
と思い、ほとんど休まず九州を縦に横に駆け巡ってきたので
手首や膝が若干痛むときもありますが、このままたるまず走ります。


長崎県は、海岸線の総延長が4137KMあり、これは北海道に次ぐ堂々の全国第2位。
そんな長崎のリアス式海岸を、
冷たい北風に時には押され、時には逆らいながら
脱兎のごとく走り回りました。


干拓が進む諫早湾の堤防は、
全長8キロの真っすぐな道になっていて、上を走ることができます。
写真の通り、地図で見ればわずかな距離も、行ってみれば長大だ。。。
僕は諫早湾干拓に、よく知らないし賛成も反対もありませんが、
たまたま尿意をもよおしたので、自転車を停めてシャーとやりました。
何か意味を込めたオシッコじゃありませんので。
一応、農地になる側じゃなく、海側を選んでやりました。


武家屋敷の美しい城下町、島原は水の都。
オシッコの話の後に言うのもなんですが、
街中至るところにきれいな水が湧き、流れていて、心安らぐ街です。
たっぷり汲んであとで料理に使うと、いつものパスタも美味しく感じられました。


長崎の、有名な平和祈念像の前に立つと、
暑い盛りの8月を過ごした広島での日々と思惟がよみがえってきました。
天を指差した右手が原爆の脅威を、
水平に伸ばした左手が恒久平和を、
閉じた目が犠牲者の冥福を祈る気持ちを、それぞれ示しているそうです。
このブロンズの男が全身で表す主張を、真近で受けとめました。


よし、明日も気合いを入れて走ろう。今の僕にはそれ以外道はない。



comment (2)


男たちの SASEBO

2008/12/26 [21:18]

米兵らしき体格のいい外人さんがハンバーガーショップで大きな口を開けています。軍港の町佐世保にやってきました。


タイミングよく、大学ヨット部の後輩カクジが航海を終えて母港へ帰還してきました。
彼は現在、海上自衛隊の最新鋭護衛艦「まきなみ」で通信士の要職にあります。
「まるよん」から「まきなみ」に乗り換えて、
刈り上げた短髪に凛々しすぎるフェイス…、オトコマエを通り越えていかつい感じになっていました。
男っぷりはマイケル富岡などとうに凌駕して、マイケル中村など足元にも及ばず、マイクベルナルドみたいでした。


彼のエスコートで米軍基地のゲートをくぐり、
停泊中の「まきなみ」に乗り込み、
自衛隊の本気の艦船を見学させてもらいました。
こんな経験はもう二度とできない!
ありがとう!カクジ!


鑑橋からミサイル台から食堂やトイレまで、
くまなく案内してくれましたが、
「ココはササっと通り過ぎてください」
「コレは写真はダメです」
と、ちょいちょい機密上危ない箇所があったりするのが、また面白い。
僕にはどう違うのか全く分からないんですがね。
「これ魚雷です、短魚雷といいます」
ここにある、いつでも発射できる状態に構えた魚雷のリアル!
呉の博物館にあった展示されている艦船とは違って、
一線で活躍中の護衛艦は、どう言っていいか分からないけど、つまりスゴかったです…!


舞鶴に始まり、呉、江田島、鹿屋と、
カクジの仕事を想起しつつ訪れましたが、この佐世保で最高の形で完結させられて満足です。
似たような仕事をしていたと思われる僕の亡くなった祖父も、
このような世界で、この射るような目をしていたのでしょうか。


あの魚雷が実際に船を沈めることがないままやがて処分されることを祈りますが、
カクジや、今日は食堂でつまみ食いをしていたカクジの同僚の男たちが、
いざというときの為に、海で陸で日夜頑張ってくれている。それを目で見て僕はひとつ安心をしました。


そういえばこの日はクリスマスイブでした。
男たちのMAKINAMIに
メリークリスマス。


comment (2)


息子がやってきた

2008/12/25 [21:53]

青い玄界灘を右手に見やりながら西に進み、佐賀県に入ります。


♪SAGAさがー
はなわが歌った通り、小さくて、有名な観光地が無い佐賀県には地味な印象があります。
しかし僕には佐賀県に行くべき場所がありました。


伊万里。
ここは僕が生まれる前に両親が数年間暮らしていた町で、兄が生まれた町であります。
「父と母の原点」だそうで、母からの指令で行くことになり、
町の写真をさんざん撮ってから、当時となりに住んでいた小林さんのお宅を訪問しました。


30年間、年賀状のやり取りだけが続いていた重成家からやってきた息子を、
小林さん夫婦は優しく迎えてくれ、
そしてありがたいことに泊めて下さいました。


ここは、伊万里の「名村造船」に勤める社員と家族が住む団地なので、
小林さんと父は元同僚であり、
奥さんと母も隣同士親しくしていたらしく、
自分が生まれる前の我が家族の昔話を、不思議な気持ちで、色々と聞かせてもらいました。
姉のひとつ年下で、当時よく一緒に遊んでいたという娘さんと(ただし本人たちは憶えていない)、5年生の孫くんも、
この珍客を面白がってくれ、
夕食はとても楽しい時間でした。


小林さんは実は日本画家としても活躍されていて、
自宅内のアトリエにて、
画業のウラ話も語ってもらい、たいへん勉強になりました。
当時の父と今の僕は同じくらいの歳で、
顔もそっくりだし、
僕が目の前に居ることは、夫婦にとって、
過去から人が来たような?
変な気がするみたいです。
30年前ここで交錯して、父の転職でその後離れてしまった小林家と重成家の古い交わりを、
何となく一生懸命あたためました。


翌日には、小林さんに造船所を案内してもらい、
遠くから眺めて終わりのはずだった名村造船所を、
真近で、詳細な解説付きで堪能させて頂きました。
そして別れ際、奥さんがすこし涙ぐんでいたのは、
僕との別れがどうこうというより、
もっと深い、何か、「過ぎた時間は戻らない」という言葉が持つ哀しみ?みたいな
が、理由だったように思えます。
想像しかできません、30年という月日の重み。



ALL  1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11   12   13   14   15   16   17   18   19   20   21   22   23   24   25   26   27   28   29   30   31   32   33   34